死後の世界

聖書的セカンドチャンス論 第3章

死後のセカンドチャンスを示す8つの聖句



 前章では、「死後のセカンドチャンス」(死後にキリストの福音を信じて救われる機会)について、おおまかなことを見ました。この章では、もう少し詳細な議論をしていきましょう。とくに、セカンドチャンスを示している聖書箇所を八つとりあげて、個別にみてみたいと思います。


第一の聖句 死者にも恵みを惜しまれない神
 「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」
(ルツ記二章二〇節)

 ルツ記において、神は「死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」と呼ばれています。
 これは単に信者に関してのみ述べた言葉でしょうか。いいえ、すべての人について言った言葉です。これはナオミがルツに言った言葉ですが、こうした信仰はユダヤ人みなが持っているものだったのです。
 旧約時代、すべての人は陰府に行きました。信者も未信者も。しかし神は、陰府の死者すべてに対し、各人にふさわしい恵みと憐れみをかけてくださる、という信仰をユダヤ人は持っていました。
 人間は神の愛の対象であって、それは陰府に行った魂もそうなのです。この地上でさえ神は、善人にも悪人にも太陽をのぼらせ、雨を降らせてくださっています。そうであれば、なおのこと陰府においても、神は善人にも悪人にも恵みを惜しまれません。
 私はよく、こんな質問を受けます。
 「私がキリストを信じて生きるならば、私は死後、天国へ行けるのですね。でも、私の親や先祖はどうなりますか。私の両親は、これから私が福音を伝えたいと思いますが、祖父や祖母は、もうすでに世を去っています。彼らはクリスチャンではありませんでしたし、キリストの福音を聞いたこともなかったでしょう。祖父や祖母はどうなるのですか」
 しかし、心配はいらないのです。神の御思いの中では、先祖→自分→子孫という家系全体が一つのセットです。そのため、あなたがキリストにあって歩むなら、あなたに対して注がれる祝福は、さらにあなたの先祖や家族、親族、また子孫にも及んでいきます。
 「わたし(神)を愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
 私はこの「千代」には、単に子孫だけでなく、先祖も入っていると考えています。なぜなら聖書に、
 「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(申命一〇・一五)
 と記されています。すなわち子孫が選ばれたということは、先祖が神の愛の中にあるということです。
 クリスチャンたちについては、
 「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは、私たちが知っています」(Iテサ一・四)
 と書かれています。私たちクリスチャンも神に選ばれ、神の民に召し出された者です。そうであるなら、私たちの先祖も神の愛の中に置かれることになります。
 このように、「死者にも恵みを惜しまれない主」は、すでに世を去ったあなたの祖父や祖母、先祖に対し、恵みを惜しまれません。あなたが神を愛し、神に従って歩むなら、なおのこと「あなたの先祖」だということで恵みを惜しまれないのです。
 もちろん、これはあなたがクリスチャンとして歩むなら、先祖や親族、子孫が自動的に全員救われるという意味ではありません。救われるためには、各人が自分の意思で信仰を表明する必要があります。
 しかし、あなたが神を愛し信じて歩むときに、あなたに注がれる祝福は、単にあなたにとどまらないのです。あなたの親族や先祖、また子孫の「千代」すなわち一千世代にまで及びます。
 その祝福により、彼らの多くが救われる可能性が飛躍的に高まります。あなたは、彼らの救いと祝福のためにも、神を信じ、神に従って生きなければなりません。


第二の聖句 思い直す神
 「わたし(神)がわざわいを予告した民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」
(エレ一八・八)

 神は「思い直しの神」です。たとえ、わざわいを予告され、滅びを宣告された者であっても、悔い改めるなら、神は思い直してくださるのです。
 陰府に行った人々は、もしそのままなら、滅び行く者です。しかし陰府であっても、真実な悔改めと神への信仰を示すなら、神はその人へのわざわいを思い直してくださるでしょう。陰府は、地獄ではなく、最終的行き先を決める「最後の審判」の前の場所であり、中間的な場所だからです。
 かつて神は、預言者ヨナにニネベの町へ行かせ、「ニネベは必ず滅びる」と語らせたことがあります。ニネベの人々はそれを聞いて悔い改めました。すると神は裁きを「思い直し」、彼らを滅ぼされなかったのです(ヨナ書)。
 これは生きている人たちの場合ですが、死者の場合はどうでしょうか。
 聖書は生者も死者も共に公平にさばかれる神について語ります。
 「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私(使徒パウロ)はおごそかに命じます」(Uテモ四・一)
 生者も死者も、彼は公義をもってさばかれるのです。「さばき」とは罰を与えるの意味ではなく、裁判のことです。有罪か無罪かを決定する神の裁判です。
 このとき、生者のさばきを神が思い直されることがあるのなら、なおのこと、御恵みを惜しまない神は、死者のさばきを思い直すこともあるはずです。だからこそ、かつてヨブはこう言ったのです。
 「どうぞ、私を陰府にかくし、あなた(神)の怒りのやむまで潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてください。……私はわが服役の諸日の間、わが解放の来るまで待つでしょう。あなたがお呼びになるとき、私は答えるでしょう。……その時あなたは私の歩みを数え、私の罪を見のがされるでしょう。私のとがは袋の中に封じられ、あなたは私の罪を塗りかくされるでしょう」(ヨブ一四・一三〜一七 口語訳)
 ヨブは神を信じる者でしたが、苦難にあい、自分はいま神を信じない者と同様、滅び行く者だと感じていました。彼は自分が死んで「陰府」に行くことを知っていました。しかし陰府において、その服役ののち「解放の来る」時を待つとヨブは言っています。
 その解放のとき、神が呼んでくださるなら「私は答えるでしょう。……その時あなたは私の歩みを数え、私の罪を見のがされるでしょう」と彼は言いました。ヨブは神の「思い直し」に期待し、それを信じたのです。
 ヨブがこの地上における激しい苦難を受けたのち、唯一望みを持ったのは、死後のセカンドチャンスだったのです。彼は、死者にも御恵みを惜しまない神、思い直しの神を信じました。神は思い直してくださるかたです。
 「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち帰れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」(ヨエ二・一三)
 読者は、聖書中に神の「思い直し」について記している箇所が、いったい何ヶ所くらいあるか、ご存知でしょうか。
 私が気づいただけでも、じつに二〇箇所以上あります。神はたとえ滅びを宣告しても、人々のとりなしや、本人の砕かれた態度によっては、さばきを思い直してくださいます。その神のご性質は陰府でこそ発揮されるでしょう。


第三の聖句 死人が神の声を聞き、生きる
 「死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。……墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」
(ヨハネの福音書五章二五、二八節)

 これはキリストご自身が言われた言葉です。キリストは、「死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます」と言われました。そして「聞く者は生きる」と。
 多くの注解書は、「死人」を、霊的に死んだ人(罪人)の意味に解釈します。確かにその意味もあるでしょう。しかし、キリストの声を聞くこの「死人」は、さらに肉体的に死んだ人々も含んでいることがわかります。なぜなら前後関係を読んでみると、
 「墓の中にいる者がみな子の声を聞いて……」
 と続けて言われていますから、これは肉体的に死んだ人々、陰府にいる人々をも意味しているのです。
 あなたの先祖や親族のうち、キリストを信じないで世を去った人々、またキリストの福音を一度も聞く機会がないまま世を去った死人は、いま陰府にいます。そこは死後の最終状態ではなく、世の終わりの「最後の審判」(神の裁判)の時までの中間状態です。
 彼らは、生存中になしたそれぞれの行ないに応じ、陰府の中のふさわしい場所にとどめられ、そこで神からのお取り扱いを受けています。しかし、死者にも惜しまれない神の恵みが、彼らにも注がれます。
 「死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。……そして、聞く者は生きるのです」
 陰府においてさえも、彼らがキリストの声を聞き、それに聞き従うならば「生きる」のです。キリストが「生きる」というとき、それは神の前に生きること、永遠の命に生きることを意味します(マタ四・四、二二・三二、ロマ一・一七)。
 彼らは救われるのです。実際、後述する第一ペテロ四章六節にも、
 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それは……霊においては神によって生きるためでした」
 とあります。陰府の人々はキリストの声を聞き、その福音を聞きました。キリストの十字架の死後、復活までの三日間のことです。その間キリストは陰府に行って福音宣教をなさったのです。それは陰府の人々が神によって「生きる」ためでした。
 彼らは救いのセカンドチャンスを与えられたのです。このようにヨハネの福音書も、死んだ未信者のためのセカンドチャンスについて、きわめて明確に語っていることがわかります。


第四の聖句 キリストの陰府での福音宣教
 「キリストも一度罪のために死なれました。……その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行って、みことばを宣べられたのです。……昔ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。……死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのです。それはその人々が……神によって生きるためでした」
(ペテロの第一の手紙三章一八節〜四章六節)

 有名な第一ペテロの聖句です。使徒ペテロが語ったものです。ところがこの言葉は、多くの人々から誤解されてきました。その人々は、「これは、キリストが死者に福音宣教をなさったという意味ではない」と述べてきました。
 どうしてかというと、彼らは陰府と「地獄」を混同していたので、
 「キリストは死後、地獄へ行かれたが、そこで福音宣教をなさったと言ってしまうと、おかしなことになる。だから、死者への福音宣教という解釈は何としてでも避けなければならない」
 と考えたのです。そして様々な無理な解釈を施してきました。しかしこの句の意味は、読んで字のごとく、死後陰府に下られたキリストが、死者に福音宣教をなさった、ということなのです。はっきりと「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と述べられています。
 私の親しいある牧師が昔、この第一ペテロの聖句から、「私は死後のセカンドチャンスを信じる」と語りました。すると、アメリカ人宣教師が彼を呼びだして、
 「なんということを言ったのだ。私の聖書の脚注には、セカンドチャンスは異端の教えだと書いてある。そんなことを言ってはだめだ」
 と、ひどく抗議を受けたそうです。しかし、私たちが信ずべきはどこかの神学者の説でしょうか、それとも聖書それ自体でしょうか。
 ある神学者は、キリストは陰府へ行ったが、陰府で言ったのは人々に対する断罪の言葉だったといいます。つまり、「あなたがたは苦しんでいなさい。あなたがたに救いの機会はないのだ」と、わざわざ言いに行ったというのです。
 また別の神学者は、これはキリストの陰府降りのことを行っているのではなく、受肉前のキリストが霊においてノアの時代の人々に福音を語ったという意味なのだ、と解釈します。しかし、どうしてこんな無理な説ばかりなのでしょうか。それは彼らが、
 「死後のセカンドチャンスを言うと伝道上不都合だ」
 という固定観念にとらわれてしまっているからです。けれども、私が先に述べたように、伝道上不都合などということは全然ありません。たとえ個人主義の強い欧米では不都合になることがあっても、日本ではむしろ伝道の力となるのです。
キリストがみことばを「宣べられた」のギリシャ原語ケーリュソーは、キリストに関して用いられる時はつねに、「福音を宣べ伝える」の意味で使われています。あるいは神の温かい御教えを告げる、宣べるという意味です(単なる「勝利を宣言する」とか、「断罪する」の意味ではありません)。
 ただし、このときキリストが福音宣教をなさった死者は、ノアの大洪水以前の死者だけでした。では、大洪水後の死者たちには、いつ福音宣教がなされるのでしょうか。
 じつは、今すでに、彼らへの福音宣教は徐々になされつつあります。なぜなら、「ラザロと金持ち」の話を思い起こしてください。あの金持ちは、自分が地上で見聞きしたことを、陰府で思い起こしています。
 かつて地上で見聞きしたことの記憶は、陰府で思い起こされるのです。ですから、たとえば、クリスチャンになったあなたが、誰かに福音を宣べ伝えます。その人が信じれば、その人は死後天国へ行きます。
 もし信じなければ、死後は陰府に下ります。しかし陰府に下っても、その人は、あなたから聞いたキリストの福音を、陰府で思い起こすのです。こうして、福音は陰府において徐々に宣べ伝えられつつあります。
 私たちが、できる限り多くの未信者に対し、その生存中に福音宣教をしておかねばならない理由が、ここにもあります。
 また聖書の「ヨハネの黙示録」によれば、やがて患難時代と呼ばれる終末の苦難の時代に、神の二人の預言者がエルサレムに現われます。彼らは三年半の預言活動ののち、暴君に殺されますが、三日半の後によみがえり、人々の見ている中を昇天し、天国へ行きます(黙示一一章)。
 彼ら二人の預言者は、その死んでいる三日半のあいだ陰府に下り、かつてキリストが陰府で福音宣教をされたように、そこで福音宣教をなすでしょう。こうして、大洪水後の死者にも福音が宣べ伝えられるのです。
 これが第二段階目のことです。つまり第一段階として、キリストの陰府降りの際に、大洪水以前の死者に福音が宣べ伝えられました。そして第二段階として、終末の患難時代の二人の預言者などを通して、大洪水以後の死者に福音が宣べ伝えられるのです。
 そのとき、福音に聞き従う者たちは「生きる」のです。


第五の聖句 福音は陰府の人々のためにも存在する
 「それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」
(ピリピ人への手紙二章一〇〜一一節)

これは使徒パウロが語ったものです。「地の下」とは陰府のことです。聖書ではつねに「地の下」は陰府をさしています(エゼ三二・一八)。この聖句は、福音は陰府の死者のためでもある、と述べているのです。
 この句の前後関係は、主の十字架・復活・昇天のみわざを述べています。その上でこの句は、キリストの救いのみわざと福音は、天上、地上、陰府にいるすべての人々のためだと語っているわけです。福音は、陰府にいる人々でさえも、
 「ひざをかがめ」
 すなわち礼拝して、
 「イエス・キリストは主である」
 と告白するために存在しているというのです。この告白は、イエスは「キリスト」(救い主メシヤ)であり、「主」(従うべきおかた)であるというもので、救われる信仰告白そのものです。
 イエスを単に「神の子」と呼ぶのと、「主」「キリスト」「メシヤ」と呼ぶのとでは、意味の上で大きく違います。聖書には、悪霊がイエスを「神の子よ」と呼んでいる例がありますが、「イエス・キリストは主である」と言っている箇所はありません。
 「イエス・キリストは主である」は信仰者のみが使う言葉なのです。聖書ははっきりと述べています。
 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ一〇・九)
 「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリ一二・三)
 すなわち、聖霊以外に「イエスは主」と告白させるものはありません。
 聖霊は私たちを救うおかたです。このように、福音は陰府の死者のためにも存在し、彼らが「イエス・キリストは主である」と告白するためにあるのです。そして彼らは心からそう告白するとき、救われるのです。
 ところで、私はかつて月刊『ハーザー』誌(マルコーシュ・パブリケーション)の二〇〇二年七月〜一二月号において、死後のセカンドチャンスに関する誌上ディベート(討論)を行ないました。
 そこに肯定派と否定派の両論が掲載されたのです。私は肯定派の論客でしたが、このピリピ二・一〇〜一一の解釈に対し、ある否定論者がこんな反対論を提出しました。
 「陰府の人々が『イエスは主である』と述べるとしても、それは救われたということではなく、悪人たちが、陰府において主が自分の悪行を正しくさばかれたことを証しし、神の義を示すという意味にすぎない」
 と。しかしそうでしょうか。
 この反対論者はまず、陰府にいるのはみな「悪人」だといっています。けれども、陰府は必ずしも「悪人」だけの場所ではありません。旧約時代において陰府は、神を信じる聖徒たちも行った場所でした(創世三七・三五他)。また現在においても、クリスチャンでなかったために陰府に下ったが、善人だったという人もいるでしょう。
 そして、聖書によれば「イエスは主である」と告白させるのは、聖霊以外にありません。聖霊がそう告白させるのは、救い主イエスにあって人を救うためです。
 神は、「聖霊による新生と更新との洗いをもって、私たちを救ってくださいました」(テト三・五)。聖霊が「イエスは主である」と人に告白させるとき、それはその人が主なる神の義を証ししながら地獄へ落ちるためではありません。
 さらに次のことも重要です。第二歴代誌一二・六に、このような例があります。イスラエル人たちが罪を犯し、神の裁きが下りました。そのとき、彼らはへりくだって「主は正しい」と言いました。彼らは、先の否定論者の言葉を用いれば、
 「主が自分の悪行を正しくさばかれたことを証しし、神の義を示」
 したわけです。では、そのときこのイスラエル人たちは、そのまま滅んでいったでしょうか。いいえ、次の節を見ると、
 「彼らがへり下ったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう」(一二・七)
 と神が言われています。つまり、滅ぶべき者も、へり下って神の義を証しするなら、神は救いをお与えになっているのです。滅びはお与えになりません。すなわち、陰府の死者であっても、へりくだって「ひざまずき」、「イエスは主である」と告白するなら、神は彼らに救いをお与えになるでしょう。


第六の聖句 陰府からの讃美礼拝
 「私(ヨハネ)は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように』」
(ヨハネの黙示録五章一三節)

陰府の中から讃美礼拝が捧げられる
 これは使徒ヨハネが語ったものです。ここにも「地の下」が出てきます。すなわち終末の時代には、陰府の中からも、神への礼拝と讃美の声が上がるというのです。
 まず、注意してほしいのですが、ここに天上、地上、また陰府の、
 「あらゆる造られたもの……がこう言うのを聞いた」
 と書かれています。この「あらゆる」は、原語(ギリシャ語パン)では一人残らずの意味ではありません。むしろ数が多いことの強調であり、「非常に多くの」の意味です。なぜなら、たとえばマタイ一〇・二二に、
 「わたし(キリスト)の名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」
 と言われています。、「すべて」は原語では同じ言葉ですが、ここでもそれは一人残らずの意味ではなく、「非常に多くの」人々に憎まれるの意味でしょう。なかには、クリスチャンを愛してくれる人々もいるはずだからです。
 このように先の黙示録五・一三の、「あらゆるものが……言う」の意味は、陰府にいる死者の全員が、ということではなく、「非常に多くの者」が神への讃美礼拝の声をあげるということです(他にロマ一一・二六、ヨハ一三・三五等も参照)。
 つまり、陰府の中から非常に多くの者が、
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」
 との讃美の声をあげるのです。これは、救われた者たちの讃美と礼拝の声です。彼らはキリストの福音に聞き従って「生きる」のであり、神への感謝と讃美を捧げるのです。


讃美に呼ばれているのは救われた者たち
 さて、あるセカンドチャンス否定論者は、陰府の中からのこの讃美を、次のように解釈します。
 「讃美するからといって救われているとは限らない。たとえば詩篇一四八篇では、全被造物が神を讃美すべきと言われている。陰府の人々も、神を讃美することになるだろう。だがそれは、神が自分の悪行を正しく裁かれたことを証しし、神の義を示すためであって、彼らは神を讃美しながら地獄の滅びへ落ちていく。
 終末の日には、滅びに定められた者も、悪霊たちも主を讃美する。イザヤ書四六・一ではまた、バビロンの偶像の神々が真の神の前に『ひざまずく』と述べられている。滅び行く者も、神を讃美する」
 しかし、はたしてそうでしょうか。反対論者のこの解釈は、次の理由で不適当です。
 聖書中にはたしかに、物質界や生物界の様々なものが、神への讃美のために呼び出されている例はあります。しかし悪霊や、地獄行きの人間が神を讃美している例は一つもありません。讃美のために呼び出された例も一つもありません。
 黙示録において、神への讃美のために呼び出されているのは、「神のしもべたち」だけなのです。
 「御座から声が出て言った。『すべての神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を讃美せよ』」(一九・五)
 終末の日には、天上、地上、また陰府で神を慕い求めるすべての魂が、神への讃美のために召し出されます。彼らは信仰を通し救いにあずかった「神のしもべたち」であって、悪霊や地獄行きの者たちではありません。聖書は、悪霊については、
 「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが悪霊どももそう信じて、身震いしています」(ヤコ二・一九)
 と述べています。悪霊たちは神の前にふるえおののき、屈服し、ひざまずくことになりますが、神を讃美するようにはなりません。また悪霊たちがイエスを見て、
 「神の子よ……もう私たちを苦しめに来られたのですか」(マタ八・二九)
 と言った箇所が福音書にあります。彼らはイエスを「神の子」と呼び、その前にふるえおののき、ひざまずくことはありますが、神を心から讃美してはいません。しかし陰府の人々は違います。なぜなら彼らは、
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」(黙示五・一三)
 と述べて、喜びの讃美を捧げているのです。これは天使たちの讃美と全く同様の言葉なのです(黙示五・一二、七・一二)。つまり、心から神をあがめる信仰から来ると理解されます。


神の義を証しする人を神は救い出される
 では、否定論者が根拠としてあげるイザヤ四六・一については、どうでしょうか。
 この句は、異教の神々が真の神の前に"屈服する"ことを述べたものであって、讃美ではなく、また人間について述べたものでもありません。むしろ人間については、その前のイザヤ四五・二二で、
 「地の果てのすべての者よ、わたしを仰ぎ見て救われよ」
 と述べられ、神を仰ぎ見、讃美して「救われる」ようにと説いています。
 聖書には、偶像の神々や、地獄行きの者、悪霊などが真の神を心から讃美するという思想はないのです。
 「主よ……あなたの聖徒はあなたをほめたたえます」(詩篇一四五・一〇)
 「主は私の救いとなられた。このかたこそ、わが神。私はこの方をほめたたえる」(出エ一五・二)
 讃美するのは、一貫して救われた人々です。人間は、悪霊や偶像の神々とは違います。悪霊や偶像の神々は、滅ぶべきものであり、神の愛の対象ではありません。しかし人間は、神のかたちに造られ、神の愛の対象として存在しているのです。
 神は、一人でも人間が滅びることを望まれません。神の義を証しする人を、神は救い上げるのです。一方、反対論者の中には、
 「『死人は主をほめたたえることがない』(詩篇一一五・七)と聖書に言われている。これは、陰府からの讃美礼拝の考えと矛盾するのではないか」
 との意見を述べる人もいます。これについてはどうでしょうか。
 たしかに、ダビデの時代にはそう思えました。「死人は主をほめたたえることがない」と。しかし、聖書にはほかに、たとえば「死人は生き返りません」(イザ二六・一四)とも述べられています。けれどもキリストによって死人の復活が起こりました。同様にキリストの福音によって、陰府の死人も主をほめたたえるようになるのです。
 以上、幾つか反対論もみてきました。どちらが聖書的かを、またどちらが理にかなっているかを、読者はよく見きわめる必要があります。
 あなたの先祖や、すでに世を去った親族、陰府にいる死者にも、神の救いの御手が差し伸べられているのです。これを救いの「セカンドチャンス」といいます。ファーストチャンスはこの地上の人生、セカンドチャンスは、死後の生活です。
 ファーストチャンスで信じるのが一番良いのです。その人は、神と共に生きる幸福の道を歩み、死後は、陰府に下ることなく天国へ行けます。
 しかし、ファーストチャンスのときに、福音を一度も聞いたことのない人々もいます。そういう人には、神は死後にセカンドチャンスをお与えになるというのが、聖書の教えです。
 そして、あなたがこの地上で神と共に歩むなら、神の救いのセカンドチャンスは、あなたの家系のすべての人々に対し豊かに臨むでしょう。
 ただし、あなた自身に関して言えば、あなたはすでにこの地上で福音を聞きました。すでに聞いた者には、責任と義務があります。あなたは、聞いた事柄に対して応答しなければなりません。
 あなたが信じるなら、祝福と永遠の命が与えられます。しかし信じないなら、あなたは依然として罪と滅びの道にとどまることになります。ですから聖書は私たちに言っているのです。
 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』という年月が近づく前に」(伝道一二・一)
 神とキリストを信じるのは、早ければ早いほど良いのです。


第七の聖句 陰府の人々の裁判に「いのちの書」
 「私(ヨハネ)は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった……死もハデス(陰府)も、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池(地獄=ゲヘナ)に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。……」
(ヨハネの黙示録二〇章一一〜一五節)

 これは、キリスト再臨後、千年王国の後に神の御前で開かれる「最後の審判」の光景を描いた預言的幻です。すなわち、いわゆる「死後の裁き」の法廷です。神による裁判ですが、この「死後の裁き」は、各人の死の直後にあるのではありません。
 世の終わりにあるのです。さて、この最後の審判は、第一ステージと第二ステージに分かれます。
 第一ステージは、クリスチャンたちのためのものです。なぜなら神の裁きは、まず神の家から始まると言われています(Tペテ四・一七)。クリスチャンたちも、一種の裁きは受けます。ただし、クリスチャンたちは地獄へのさばきを受けることはありません。
 神から与えられたタラントを用いたか、神の教えを実行したか、などがクリスチャンに問われます。それによって新天新地で、ある者は三〇倍、ある者は六〇倍、ある者は一〇〇倍の報奨を受けるのです。
 一方、第二ステージは、陰府の死者たちのためのものです。ここに引用した「第六の聖句」は、その第二ステージを述べたものです。なぜなら、
 「ハデス(陰府)も、その中にいる死者を出した」
 と書かれています。これは、それまで陰府にいた死者たちの最終的な行き先――新天新地(神の国)か、地獄(火の池)かを決定するための法廷なのです。
 注目すべきは、この陰府の死者のための裁きの法廷に、「いのちの書」が提出されていることです。いのちの書とは、何でしょう。それは回心者名簿です。なぜなら、それに名が記されていれば新天新地に入れられ、名がなければ地獄(火の池)の滅びが決定されるからです。
 回心者の名前が記されているということです。未信者として死んで陰府に下った魂の最終的行き先を決めるこの最後の審判の法廷に、つまりその第二ステージに、「いのちの書」という回心者名簿が提出されているのは、一体なぜでしょうか。
 それは陰府の死者に回心者がいるから、としか考えようがありません。なぜなら、もし陰府に回心者が一人もいないとするなら、回心者名簿を提出する必要さえないのです。
 さらに、陰府に回心者が一人もおらず、全員が地獄へ行くのなら、陰府自体が必要がありません。はじめから地獄でいいことになります。陰府という中間状態が存在すること自体が、陰府の死者に救われる可能性があることを示しています。これも非常に大切な点です。


第八の聖句 死者にとっても「主」となるために
 「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです」
(ローマ一四章九節)

 これは使徒パウロが語った言葉です。キリストは死者にとっても生者にとっても、その主となるために十字架上で贖いをなし、陰府に下り、また地上の生涯を歩まれたのです。キリストが「死んで、また生きられた」という十字架と復活の福音は、死者のためでも生者のためでもあります。
 キリスト教会は、大きく分けて西方教会と、東方教会から成っています。西方教会は、死後の救いを述べることをタブー視しました。これには中世の堕落が大きく関係しています。けれども東方教会では、そうではありませんでした。 
 「キリストの陰府での福音宣教」という解釈は、東方教会では広く説かれていたのです。アレキサンドリアのクレメンスもそうでした。オリゲネスも、キリストの陰府降下は 「死者にとっても生者にとっても主となるため」になされた、と述べました。
 大切なのは、キリストが死んで陰府に下られたのは、キリストが死者にとっても「主となるため」だったということです。すなわち、未信者として死んで陰府に下った人であっても、陰府でキリストを「主」と認め、信じ、心からあがめるなら救われるのです。
 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ一〇・九)
 「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリ一二・三)
 キリストを主と告白し、信じるとき、たとえ陰府の死者であっても救われます。

 以前、セカンドチャンスを信じるある牧師が礼拝説教で、先のローマ一四章九節「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために死んで、また生きられたのです」を取り上げ、
 「死後のセカンドチャンスについては、こんなにはっきりと聖書に書いてあるのに、それを信じないほうがおかしいのです」
 と大胆に語ったそうです。私もそう思います。あなたもそう思いませんか。私が述べてきた「セカンドチャンスを示す八つの聖句」を、よくお調べになってください。聖書はきわめてはっきり語っているのです。私は感情論で議論しているのではなく、聖書的議論を行なっているのです。かつてアンテオケのクリスチャンたちは、
 「はたしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒一七・一一)
 と書かれています。自分で聖句をよくかみしめることが大切です。
 それでもなお、もしセカンドチャンスを否定するなら、私たちはきっとどこかで強迫観念、あるいはマインドコントロールの犠牲になっているのです。そこから抜け出すことが、日本のリバイバルの鍵です。
 もう中世の堕落時代以来の非聖書的観念とは、決別しようではありませんか。
 私は聖書六六巻をすべて文字通り信じる者です。私は聖書全巻を読みながら、セカンドチャンスを否定する聖句に出会ったことはありません。もしあるのなら、示して欲しいものです。
 また、これまで何度もセカンドチャンス否定論者と公開討論をし、議論してきましたが、
 「なるほど聖書から言って、私のほうが間違っていた」
 と思ったことは一度もありません。むしろ、否定論者のほうが聖書的議論ではなく感情論や、人間的な固定観念で言っているな、と感じることが多々あります。私にはますます、セカンドチャンスは聖書の真理だという確信が与えられています。
 欧米の宣教師は反対するかもしれません。とりわけアメリカの宣教師は、「よみ」(hades)と「地獄」(hell)の観念の混同が激しく、セカンドチャンスなどとんでもない、という人々が多くいます。また宣教師にとって、母国の宣教団体の意向にさからうのは、とても難しいことです。
 しかし、それでも勇気をもってセカンドチャンスの真理を認める宣教師が現われてくれることを、私はあきらめずに祈ります。また私は、日本人の牧師や、伝道者にも、もっとセカンドチャンスを語る人々が増えてくれることを祈ります。
 私はすでに、そうした幾人もの伝道者を知っています。なかには大教会の牧師や、著名な働きをなさっている優れた方々が多くいます。彼らは勇気ある人々であり、神に忠実な働き人です。彼らは、セカンドチャンスは純粋に聖書的真理だと信じています。
 私は、セカンドチャンスを認める人が私だけでないことを、神に感謝します。セカンドチャンス肯定派は、今後どんどん増えていくでしょう。
 私の経験では、セカンドチャンス肯定派は、牧師や伝道者以上に信徒の間に多いようです。なぜなら、牧師や伝道者は所属している教団教派の意向に左右されたり、立場があります。でも、信徒は比較的自由な立場で聖書を理解できるからです。
 私たちが立場を離れて虚心坦懐に聖書に聞くなら、セカンドチャンスは明らかに神の真理であることを確信できます。もっとも私自身、セカンドチャンスをこうやってはっきり語れるようになるまでには、何年もかかりました。私にも立場があったからです。
 けれども今は、それを乗り越えました。そして、これを語らずしては日本に福音は広まらないとの強い思いがあります。私は神に押し出されて、この本を著しました。私はこの本を読んでいるあなたも、セカンドチャンスを広める人になっていただきたいのです。
 そうやってセカンドチャンスの真理が広まらない限り、決して日本にリバイバルは来ないでしょう。というのは多くの日本人は、
 「キリスト教は、日本人の先祖は今みな地獄にいて、もはや救いはないとする教え」
 と思っています。その誤解を解く人になってください。キリストの福音は、いま陰府にいる日本人の先祖たちのためにも存在しているのです。
 多くのクリスチャンは、「なぜ日本に福音が広がらないのだろう」と疑問を持ちます。欧米の大伝道者を幾人も招き、大伝道会を開くけれども、クリスチャン人口はいっこうに増えないじゃないか。どうしてなのだと。
 しかし私には、その理由は明らかなように思えます。多くの日本人は、キリスト教は不合理な教えと思い込んでいるのです。日本人の先祖は今みな地獄にいて、キリスト教は彼らを救うことができない。そんな教えを信じるのは馬鹿げている、という観念です。
 この観念を打ち破らない限り、日本に福音が浸透していくことは到底望めません。聖書的セカンドチャンス論だけが、その観念を打ち破ることができるのです。

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久保有政

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