山中智恵子論
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--- 連載のはじめに ---







Presented
by


中路 正恒
Masatsune NAKAJI


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 連載のはじめに
       

 このたび『日本歌人』編集部より、山中智恵子について書く機会を与えていただいた。十回の予定で連載させていただく。有り難く、また畏れ多いことである。まずは会員の諸氏に篤くおん礼を申し上げる。

 タイトルは「山中智恵子論」という編集部のご提案に従わせていただくことにした。このタイトルはいかにも畏れ多い。たとえば「山中智恵子について論じる」というものならまだ気持ちにゆとりができるのであるが、しかしそもそも論じるということが容易でないものごとについて書くことになる。山中智恵子の歌についてだけ論じる、ということですむわけもなく、また彼女が評論等で論じたことだけで話がすむわけもでない。その歌においても、論においても、氏が背景にしている世界は広く深く、その果てをわたしは見通すことができない。しかし何らかの点でわたしにも理解し押さえることができるポイントがある。それについていささかのことを述べ示すことができれば、それだけで世のための何らかの資となるであろう。まずはそれをめざしたい。

     ◇

 しかし、ここではさらに、わたし自身が問題にしているテーマがあり、この連載もおおむねそれに沿って展開したいと思っているのである。それは山中智恵子の仕事を折口信夫の仕事との関わりで位置づけてみたいということである。折口の、とりわけ戦後の仕事との関係においてである。それはひとつは恋の問題、やまと恋の問題である。折口はこう歌っていた。
  遠つ世の恋のあはれを 傳へ()し我が学問も、終り近づく
                『倭をぐな・古き扉』

 昭和二十二年一月。折口の戦後の述懐である。折口はここで自分の学問の核心は遠つ世の恋のあはれを伝えることであったと捉え直しているようにみえるのである。敗戦によって、その学問も意味のない努力だったことになるだろうと予感している。

 ここで折口が言う「やまと恋」は、『近代悲傷集』に収められた昭和二十一年作の詩「やまと恋」によってはっきりと語られていると考えてよいであろう。その詩は「恋せよ。処女子」という恋の明確な讃美で終わっている。恋から生じるすべてを肯定する折口の明確な姿勢がここに表明されているのである。

 そして処女子の恋が「やまと恋」であって、その他のものではないことの見極めは、その詩の反歌の第一の中で言われていると見てよいであろう。それは、
   たはれめも 心正しく歌よみて、 命をはりし いにしへ思ほゆ
である。生の終わりを、心正しく歌をよむことによって終えることができる、そのような覚悟性において、折口は「やまと恋」を捉えていたと理解できるのである。

     ◇

 折口が「遠つ世の恋のあはれ」と呼んだものは、山中智恵子によってどのように捉え直されているのだろうか。それはさらに深められ、そしてさらに悲劇的な位相を示しているのではないだろうか。
  たもちきしひとつのことば十津川に夕弾(ゆふづつ)ひとり思ひみよとや
                 『虚空日月・ヒツ*a
「ひとり思ひみる」ことの先に何があるのか? 「恋のあはれ」にとどまってはいられない境位がここにはっきりと姿を見せているのである。

 最近わたしは菱川善夫氏のめざましい論考を目にした(「山中智恵子論」『短歌往来』06年8月号)。ここには斎王の恋ともよぶべき、山中智恵子が到達した最終的な恋の形が鮮明に取り出されている、と言うべきではないだろうか。たとえば菱川氏の上げる次のような歌である。
  斎王の乳首をふくみすはぶりしこの神を視よ創世の日の
                   『渇食天・斎王天』
  しづかなる咲ひに神を殺すこと蛇に知らゆな血のひとときを
                    同

 ここで斎王はその肉体において神と出会っているのであろうか? 神と出会い、交わるとはどういうことなのだろうか?

 わたしがかつて拙稿「山中智恵子のキリスト教」(1)の中で論じ残した問いは、恋において出会いがあるのか、という問題だった。単にわたしがわたし外に向かうだけではない、真に出会いといいうる何かが生じるのかという問いである。この問いを山中智恵子もまた引き受け、そして終生問いつづけたようにみえるのである。『渇食天』の斎王の恋は、その肉体性において生じる何らかのリアリティーを語っているであろう。前者の歌においては「視よ」という強い指示において。後者の歌では「蛇に知らゆな」という措辞において。リアルな出来事があるゆえに「知られざるべし」という掟が実効性をもって生きるのである。山中智恵子の斎王はその乳首において神と出会い、そしてその咲ひのなかで神を殺している。

     ◇

 この問題は、戦後の折口が提起したもうひとつの問題とも非常に深いところで関係しているようにみえるのである。それはつまり「女帝考」で語る中天皇(=中皇命、なかつすめらみこと)の問題である。忍海飯豊青尊(飯豊王)を典型とする中天皇とは、「宮廷で尊崇し、其意を知つて、政を行はれようとした神」と天皇との「中立をして神意を伝へる非常に尊い聖語伝達者」であるとされる者である。そして折口によれば「中天皇が神意を承け、其告げによつて、人間なるすめらみことが、其を実現するのが、宮廷政治の原則だった」のである。つまり、宮廷生活の中心をなしているのは「神の詔命を伝達(モ)つ人なる天皇(スメラミコト)、其に、其神と、人なるすめらみことの中間に立つ「中之詔命伝達者(ナカツスメラミコトモチ)」なる中皇命とで」あったのである。

 それが後に「詔命初発者」である天神と、詔命伝達者(みこともち)である天皇との間に混同が生じ、そこから天皇即神説が起ってきたとされるのである。

 中村生雄氏は『折口信夫の戦後天皇制論』(一九九五年、法蔵館)の中で、この折口の女帝考をもとに、本来の「中天皇」が天皇の単なる妻妾とみなされるようになる時代を探り、天神から詔命を受け取る宮廷高巫の役割が、皇后から切り離され、斎王として独立するという説を示している。いわゆる「神の嫁」(「女帝考」では神の妃と表記されている)の問題である。

 しかしながら、折口も中村も、神の詔命がどのようにして高巫の身にもたらされるかという点については、なお抽象的な議論にとどまっているように見える。山中智恵子はその問題に最高に具体的な形を与えたのではないだろうか。

 わたしはこの折口の、天皇を「すめらみこともち」の略語とする説、そしてそこから展開される天神の詔命を受け取り、行なうことを軸にした見方に大いに共感するのであるが、しかしこの問題は、いわゆる高巫が、どのようにして天神の詔命を受け取るのか、ということを原点にすることなしには正しく議論することができない。そもそも高巫に神がつき、詔命を告げようとするとき、その神にそもそも名前があるのか。そのことを、その出来事が生じる時その度に繰返される、「創世の日」の出来事として考えなければならない。

 斎王の乳首をすはぶる神は誰なのか、その神を視よ、という山中智恵子的な問いの中に、戦後に折口が語った天皇制の成立根拠についてのスリリングな問題のリアルな根拠の全てが集約されている、とわたしにはみえるのである。

 折口信夫の「女帝考」、中天皇論から、山中智恵子の斎宮論、斎宮歌へ、幾つかの線を正しく引くことなしには山中智恵子の仕事のある部分は見えてこないであろう。

     ◇

 さらに、山中智恵子の美しい仕事のなかには、たとえば鳥になること、そして鳥になることによって見え、そして感じられる世界の創造という仕事がある。たとえば前川斎子氏が「山中智恵子さんのことども ---空と海と島のうたびと---」(『短歌往来』前掲号)という美しいテキストの中でとりあげている歌、
  とぶ鳥のくらきこころにみちてくる海の庭ありき 夕を在りき
                『みずかありなむ・海の庭』
が語り、そして拓いた世界、こころのやすみどころ創るという仕事がある。この仕事の数々についてもわたしは能うかぎり示してゆきたいと思う。しかしそれはまたとても難しい仕事でもある。

 私事でもうしわけないが、わたしが初めて山中智恵子の作品を目にしたのは二十歳のときであった。わたしは大学の二年になってその大学の短歌会に入ったのだが、その入って早々、五月か六月のある日、友人がわたしの下宿に持ってきてくれたのは、『短歌』誌に載った「虚空日月 二の抄」であった。
  在らざらむこの夜ののちを言はなくに天心秋をひたす面影
から始まる歌群である。

 さっぱりわからない歌たちだった。美しい言葉たち、しかしそれがどのような心を歌っているのか、まったく見えてこなかった。

 その後一週間ほどして、夜、机の上に置き放しにしていたそのコピーをもう一度読んでみた。なぜこんな風にいわれているのか、この言葉はどんな意味で、どんな風に他の語とかかわっているのか、それに最大限にこだわり、疑問を歌にぶつけ返すようにして思考を繰返していた。すると、それをどのように表現したらよいのか今もってまったくわからないのであるが、忽然として世界が開けたのであった。その高く、限りなく透明な世界が。わたしは短歌にこんな高い境地から歌われる世界があるとは想像もしていなかったのだった。それは目の前に一気に浄土が開かれたような経験であった。禅僧はしばしば、あるとき忽然と悟りが開かれたというようなことを言う。わたしにとってもそれは忽然と目の前に開かれた清浄世界と言う他はない。苦しみの極みにおいて清浄なのである。

 その後、『虚空日月』の手前までの問題を、わたしが専門にしているニーチェの神の死の問題の連関の中で考察し、それを「山中智恵子のキリスト教」としてまとめた。そしてその後は、『虚空日月』のなかの心に沁み徹る歌を、その歌から得た見通しでひとつの論を纏め、同時にその歌を注釈する仕事を続けた来た。最終的に読み解きたかったのは、「虚空日月 一の抄」の、
  ただよひてその()に死ねといひしかば虚空日月(こくうじつげつ)(ふか)きかも
の歌である。その歌からわたしははじめロブ=グリエの『覗く人』のおそるべき場面と同じような感銘を受けた。だが久しく解読することはできなかった。

 しかしそれを最近やっと試みることができた。「「その掌に死ね」といふこと」(2)という宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を扱った論文である(『東北学』第十号)。その最初に感銘を受けたときから、ほぼ三十五年を経ていた。やっと一山を越えられたという思いである。

     ◇

 これから十回、雑然とした旅になるかもしれない。ご同行いただければ幸いである。

つづく

 *文字の注
*a  は「王偏」に「必」。『今昔文字鏡』対応番号<&M020919;>

(1) はじめ私家版として発行。後『郡山女子大学紀要第二十六輯』(一九九〇年)に所収。さらに拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』(一九九七年、創言社)に収める。現在 http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/essais/chiekoch.htm で閲読可能。この拙論をわたしは山中智恵子氏の指示によって、私家版を二名に、紀要版を一名に、そして創言社版を一名にお届けした。
(2) この論文も現在 http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/MiyazawaKenji/Sonoteni.htm で閲読可能です。


2006.11.15
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このテクストは、『日本歌人』2007年1月号(2007年1月1日発行)に掲載されたものです。
HTMLにするに際して若干の便宜を加えました。
2007年2月10日


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