西鉛駅・県立保養所
--- 宮沢賢治・花巻見聞録 02 ---


中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie





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   ◇◆◇ 花巻市鉛でのある日の見聞 二

 小さなカメラと手帳だけをもって旅館の横の道を外に出てみた。そして川の方に行く。すぐそばに村人専用の温泉入浴施設があった。そこを過ぎて川(豊沢川)に出ると木の橋がかかっている。そこからは旅館の川に面したところの全体が見える。そこで何枚か旅館の写真を撮る。この旅館が、どんな場所の中にあるのか、ほんの少しだけわかる。ただの一点だった旅館の場所が、その隣接地に少しだけ繋がっていったのだ。

 その橋は車の通行は禁止されていた。その橋を渡ってさらに先のほうへ行く。舗装された登り道だ。左右に、人家や作業場のようなものが連なる。右手には先の豊沢川に流れ込む数メートル幅の細い流れがあるのだが、パイプを組んで橋を作り、その細流の向こうに行けるようにしている。建築の足場に使う資材を使って個人の家のための橋を作っているのだ。そのパイプ橋の手前に、熊が出るから注意という札がかかっていた。

 もう戻ろうか、と思った時だった。どっから出てきたのか、ひとりの青い服の男が目の前の坂を上がっていっていた。そして見えなくなった。片足が少し不自由な様子だった。この道はきっとどこかに通じる、そんな気がした。そのときまで、この道は行き止まりではないかと思っていたのだった。その男の人を追うようにして、わたしも坂道を上がって行った。アリスが、ウサギの後を追って、不思議の国に入って行く。そんな気持ちが少した。

 平野が開け、村の風景が広がった。家や畑がゆったり目につづいていた。車庫から車が一台出てきてわたしの右手の方に去って行った。はっきりと確認したわけではないが運転していたのはさきほどの男性のようだった。ともあれわたしは村に出た。温泉はこんな村に隣接していた。そして、もっと正しく地理的に言えば、この村の中にあった。ここが鉛の集落なのだった。

 左に折れて少し歩くと、左手に神社が見えた。その鳥居の形には特徴があって、わたしは山王鳥居と間違えてしまったのだが、山王鳥居のあの屋根形のものはない。あまり気を止めることもなくわたしはさらに進んでいった。この辺りは温泉の藤三旅館の対岸の上方に当るはずだった。

 右手に鶏を飼っているらしい独特な形の建物があって、それを過ぎると十字路に出た。その左前の砂利を敷き詰めた空き地には早朝マラソンの集合場所という札が立っていた。わたしはその十字路を左手に折れる。

 前方に赤いアーチのついた大きな鉄骨の橋が見えた。この橋はまた豊沢川を跨ぐ。橋にかかると左手に再び藤三旅館が見える。旅館部の方の建物だ。そこでまた少し写真を撮る。橋を渡っていると向こうから五十代の主婦とみえる女性がやってくる。そこで挨拶をして少しものを尋ねる。

 「このあたりに鉄道の、軽便鉄道の西鉛という駅があったそうなんですが、ご存じないですか」と。

 鉄道という言葉がよくつかめないようだった。実際あとで調べてみると、ここには「軽便鉄道」ではなく「電車」と呼ばれるものが、賢治の時代(大正14年)から走っていたのだった。

 「電車の西鉛の駅ならすぐそこの上の方だが。ここの通りを電車が走っていて。上の方に大きな道路ができてから電車は廃止になったが。」
 「その近くに保養所とかなかったですか?」
 「その駅のところから下へおりる道があるでな、その先の河原のところに県立の保養所があっただが。」
 「その駅のところまで歩いて五分ぐらいで行けますか。」
 「すぐそこの上の方だで。」
 「保養所の跡の方へも行けますか。」
 「駅のところから下へおりる道がある。ヤブになってるし、熊が出るから気をつけなよ。」

 そんなやり取りだった。西鉛駅がどこで、保養所がどこかということが一遍でわかってしまった。それからわたしはこの婦人に言われた方向をさして坂道を上がって行った。ほんの二三分もしないうちに、昔の西鉛駅があったと思われる所に出た。終点らしい平地のちょっとした広がりから見当をつければいいのだ。そしてそれから保養所の跡地につづいてゆく道を下った。ガードレールもあり、もとは舗装もされていた道だった。しかし今はさすがに通る人も稀な道らしく、野草が茂っていた。といっても膝下ぐらいまでなので、わたしは、茂みの薄いところを選んで下りていった。下の方に行くと、黄色いキク科の、サワオグルマなのだろうか、群落が広がっていた。

 下りると左手に、温泉の汲み出し口なのだろうか、まだ老朽化していない三畳ばかりの施設の建物があった。河原はヤブも深い。そこでも何枚かの写真を撮って、このような景色も賢治も目にしていたのだという思いを得て、その坂道を引き返したのだった。



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