鉛村の生業・炭焼き
--- 宮沢賢治・花巻見聞録 04 ---


中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie





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   ◆◇◇ 花巻市鉛でのある日の見聞 四

 藤井行雄さん(六十七歳)はとても楽しそうにこの村のことを話してくれた。彼はこの村ではひとりも猟をやってなかった、という。生業はほとんどが山仕事で、つまり炭焼きをしていた、ということだ。山神神社はそういう村人の神社なのだった。対して温泉神社の方はというと、それは温泉がやっている神社で、何か祭事がある場合でも「長」がつく人ばかりがやってきて何かやっている、ということだった。温泉神社は村人がよりどころにする神社ではないのだ。宮善(宮沢賢治の母方の実家)がもちろん関係している。藤井さんは、金持ちは柔軟な考えをもつ必要に迫られることはないのだ、ということを言っていた。貴重な意見である。宮沢賢治もこの「金持ち」に含まれるのかもしれない。しかし、「しかたなしに猟師なんぞしるんだ」という賢治の『なめとこ山の熊』の小十郎の生き方はむしろこの藤井さんのような意見から透けてみえてくるのである。

 藤井さんはさらにこの村の普通の生き方についてたくさん説明してくれた。この村には大きな木炭倉庫が二つあった。焼いた炭は倉庫に運びそこに検査委員が来て等級を決めるのである。不合格になることもあるという。その後そこから電車で花巻に出荷していた。

 倉庫があったのはこの前の大畑の駅のところと(と、自分の家の前方の林を見る)、あと西鉛の駅のちょっと先のところにあった、という。そして、以前は鉛には七十世帯あったが、そのうち四十世帯は炭焼きをやっていたのだと教えてくれる。山を見やると下の方には杉林が見えるものの、中腹から上の方は主に広葉樹のようだった。山は全部国有林だが、ナラのあるところを払い下げてもらって、炭を焼く。林のどこを誰の場所にするかということは毎年村の組合で寄り合って決める。自分の父親は、山の奥の方の、運搬には苦労の多いところを進んで取らせてもらっていたという。仕事はきつくなるが、いい炭がたくさん焼けて稼ぎはいいのだ。それでこんな家を建てられたのだ、と、藤井さんはふと誇りような表情を見せる。父から子へ人生の誇りはしっかりと伝わっている。

 藤井さんはさらに西鉛にあった県の保養所のことも教えてくれた。木造四階建で庭もある立派な施設だった。そこは主に先生方の研修所になっていたという。はじめはお湯がぬるかったのだが、あとで宮善さんが掘り直して熱い湯が出るようになったという。今はそこも更地になって、宮善さんの所有地に戻っているのではないか、ということだった。

 わたしは藤井さんに自分は宮沢賢治の『なめとこ山の熊』という作品の背景になるようなことを知りたくて歩いているのだということを告げた。そしてダムに沈んだ豊沢村のことを聞いた。水没した村の人は、市内の三ヶ所に分かれて住んだという。ほとんどが高橋姓だという。そして行雄さんの家の数十メートル離れた隣家二軒も豊沢から引っ越してきた人だったという。姓は高橋である。鉛の村に高橋姓はその二軒だけだったという。ダムは工事開始が昭和二十四年、竣工が昭和三十六年だから、人々は昭和二十年代にはどこかに移り住んだものであろう。そして今の隣家は別の人がに変ってしまったが、もと住んでいた高橋さんは行雄さんと親戚関係にあったという。わたしは正確に尋ねたわけではないが、そんなこともあって行雄さんは豊沢村から移り住んできた人たちのことをよく知っており、また顔もきくようであった。     (ver.2006.10.2)



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