鉛村のカツオヤジ
--- 宮沢賢治・花巻見聞録 05 ---


中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie





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   ◆◇◆ 花巻市鉛でのある日の見聞 五

 八月二十六日の「宮沢賢治国際研究大会」の研究発表で、わたしは、会場からのある質問に答えて、『なめとこ山の熊』の猟師淵沢小十郎にも炭焼きをやって生活を組み立てる可能性はあったのではないか。そのことを考えないのは賢治の想像力の不足ではないかと語った。賢治が「木はお上のものにきまったし……仕方なしに猟師なんぞしるんだ」と書いていることの信憑性の問題である。賢治がこれを書いたと考えられる昭和二年の状況を今正確にたどれるわけではないが、実際には狩りをしない夏期のあいだ、猟師が川魚をとったり山仕事をしたりして生活を組み立てるのは普通のことだった。自分で炭焼きをやろうと思う場合にはおそらく組合に入らなければならないであろうし、よそ者であったならその入会が容易であったとは限らない。だがもともと地の人間であったならば、猟師をする体力や体術があるならば、炭焼きは多くの場合「罪のねえ仕事」の可能性として十分に残されていたことだろう。この点も賢治の作品の中で疑問を残すところである。わたしはそのことの可能性を具体的に知りたかった。

 ともあれ鉛の村であれば、炭焼きが普通の生業であった。その鉛に、豊沢村から引っ越してきた家が二軒あった。そのうちの一軒の方に、時々、鉛の村で「カツオヤジ」と呼ばれるひとがやってきていた。姉か妹の嫁ぎ先ではないかと藤井行雄さんは想像する。カツオヤジは鉄砲撃ちだった。腕のいい猟師である。カツオヤジはときどきこの鉛周辺の山に入って熊をとってきていた。そしてその高橋の家の庭先で解体などをしていたようであった。庭先で何かをしていた、と藤井さんは言っていた。正確に見たわけではないようなのだが。だがカツオヤジが大きな熊をもってきたところは見ている。藤井さんの十歳前後の記憶である。昭和十五(1940)年前後のことになる。その当時、鉛の周辺では本格的な猟師といえる人は他にいなかったという。後で藤井さんのご尽力でわかったことだが、カツオヤジは明治二十六年巳年の生まれである。西暦に直して1893年である。『なめとこ山の熊』のはじめの方で賢治は、「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありといふ昔からの看板もかかってゐる」と記している。わたしが、そして藤井さんがこの時思ったのは、この賢治が記す「熊の胆」は、カツオヤジがとったものではないか、ということだった。ある資料によれば賢治は大正十三(1924)年に生徒と温泉巡りをして鉛温泉にゆき、その翌十四年秋にも生徒を連れて行っている(1)。仮に大正十四(1925)年の鉛温泉の熊の胆というものを考えれば、それは当年三十一歳のカツオヤジが獲った熊の胆だった可能性が相当にあるだろう。もちろんその年であれば、当年七十三歳のカツオヤジの父親が獲った可能性もなくはない。だが実際どれだけ健脚であったかによるのだが、猟師であっても齢七十を越えて山に入るのは容易なことではない。ちなみにカツオヤジの父親は和三郎といった。

 もっとも、雫石や沢内の猟師がなめとこ山あたりで獲った熊の胆を鉛温泉で売り捌いていた可能性も当然ある。カツオヤジに関して言えば、狩りの弟子はもたず、ただ息子一人を連れて山に行っていたという。そして自分もそうして狩りを覚えたということであった。親子で獲った可能性はある。しかしカツオヤジの息子は大正9(1920)年の生まれで、大正十四年当時五歳であってみれば、カツオヤジはひとりで山に入っていた可能性が高い。当時鉛村の隣の豊沢村に住んでいた猟師は、カツオヤジとその父親だけだったのである。もちろん巻狩りなどはしていない。

 賢治は「熊の胆も私は自分で見たのではない」と記す。小十郎のモデルを探すという仕事は多くの問題を抱えるが、昭和二年に賢治によって想定されていたなめとこ山の熊の胆にはカツオヤジが獲った熊のものが間違いなく含まれていただろう。また、当時カツオヤジがひとりで山に入っていたとすれば、犬一匹だけを連れて山に入っていた『なめとこ山の熊』の小十郎とイメージは重なる。年齢だけ上の方に移せばいいのである。わたしには、賢治との接触の可能性を考えても、小十郎のイメージの中にはカツオヤジがいると思えてならないのである。

 ところでカツオヤジは名人といえるほどの人だったと藤井さんはいう。鉛村で射撃大会があった時、カツオヤジは放たれた鳥をみごと一発で打ち落としたのだった。その腕のよさは藤井さんの印象に強く残っているのである。そしてこれはまた別の人から聞いた話であるが、彼は生涯に三百八十頭の熊を獲ったということである。その中にはワナ猟によるものが含まれているであろうが、それにしてもこれは相当な数である。

 そしてカツオヤジの容姿であるが、彼はなかなかの偉丈夫だったらしい。藤井行雄さんがそう記憶しているだけでなく、彼の家に息子の嫁として入った女性もそう語っている。賢治がいう「すがめの赫黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらゐはあったし」という小十郎の容姿はカツオヤジとはまったく合わない。もっともカツオヤジが賢治の三歳年長であってみれば、年齢の点だけとってみれば齢七十前後と思われる小十郎のモデルとは言いにくい。あるいは出会った可能性はきわめて低いと思われるのだが、年齢的にはカツオヤジの父和三郎が小十郎と近い。昭和二年当時和三郎は七十五歳であった。とはいえカツオヤジの子孫の家に和三郎の写真はなく、また今のところ和三郎の容姿について語ってくれる人をわたしは知らない。何かの映像資料が残っていればと思うのだが、目下のところわたしはその存在を知らない。情報があれば教えていただければ幸いである。


(1) 岡村民夫、杉浦静『企画展 宮沢賢治と温泉展』資料、宮沢賢治イーハトーブ館発行 二十九頁「年表」


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