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○○ ○○○さま 2006年9月25日
つい先ほど帰ってきました。豊沢にダムができたために花巻に引っ越した高橋美雄さんのご夫婦に誘われて、ダムが渇水しているので明日なら昔の村を案内できるといわれて、一晩泊めてもらってきました。それで今日は通学部の後期最初の授業を休講にし、五時からの会議も休んで、湖底に沈んだ村を見てきました。そして松橋和三郎さん、勝治さんの住んでいた家も、あそこだと教えてもらいました。北から行くと道路の左手です。そこはまだ湖に沈んでいるのですが。
その後戻ってから、隣家の本家(屋号:「中野」)の奥さんが昔の文書や地図をもって美雄さん宅に来てくれました。そしてその昭和九の地図を見て美雄さんが、松橋さん(屋号:「にらげ」)の家はここだと指差して教えてくれたのです。今まで田口洋美さんが、和三郎は「幕館」に住んでいたと言っていたのですが、それは間違えで、「豊沢」に住んでいたことがしっかりと証拠とともに確かめられたのです。それが今日のことでした。(豊沢は「白沢」「豊沢」「幕館」「桂沢」の四つの区域に分かれるが、「幕館」は淡島神社より北の区域を指すそうです。)
昨日は午前中は雫石で高橋健二さんから三時間ほどお話を聞くことができました。その前日は、はじめ繋温泉でたずねてみたのですが、高齢の人も誰も高橋健二の名をしらなかったのです。繋にはひとりだけ猟師がいるそうで、その人が夜六時ごろ帰ってくるといことだったので、一方で、もし分からなかったらその人に健二さんのことを聞こうと思いながら、役場の方に行こうとしていたのです。その途中で「雫石町歴史民俗資料館」という看板が目に入って、近づくと、曲屋が目に入ってきたので、曲屋とか民具とかが中心の施設だろうと思いながらも、そこにいらした指導員の方にたずねたのです。「宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の猟師のモデルのことで高橋健二さんという雫石の猟師の方に話をお聞きしたいと思っているのですがご存じないですか」とお尋ねしたところ、その渡辺洋一さんという指導員の方は、何か動揺を隠せないようでした。そして自分はまさに今高橋健二さんのライフヒストリーを追跡しているところだとおっしゃったのです。何という奇遇でしょう!
健二さんは今九十四歳で耳も眼も記憶も話もしっかりしている。ただ少し健康が心配なのだが、ということで健二さんに電話をしてくれました。それで、その日は無理だが翌日ならいいということになり、朝の八時半から、渡辺さんの立ち会いのもとで聞き取りをさせてもらえることになりました。
健二さんからの聞き取りでも、健二さんは和三郎さんに会ったことも話したこともない、だが見たことはある、という話でした。健二さんが和三郎の弟子などではまったくないということがそれではっきりしました。田口洋美さんは「高橋健二氏は松橋和三郎を師匠とし、猟を学んだ人である」(1)と書いているのですが、これはまったく違うようです。
そして健二さんからよく聞くと、「見た」というのは豊沢の松橋さんの家の前を通りかかったことがある、ということでした。そしてその犬が特徴的だったと言っていました。四つ目なのです。胴は白、顎が黒、四つの目の上の方の「目」の模様は茶色、と非常に正確に語ってくれました。あとで高橋美雄さんに尋ねたところ、松橋勝治さん(和三郎の息子)の犬はぴったりその通りの相貌だったということです。そしてその子孫の犬が二匹まだいて、血統がつづいているということでした。柴犬よりちょっと大きいぐらいの犬だという健二さんの記憶もその通りでした。健二さんの言うことは非常に的確なのです。
そしてさらに健二さんにその松橋家の前を通ったのはいつごろのことだと尋ねると、昭和十二年だということでした。
これは前回の八月二十九日の聞き取りでわかっていたことなのですが、和三郎さんは昭和五年に亡くなっています。そうすると健二さんが見かけたという人は和三郎さんであるはずはなく、勝治さんだった可能性がかなり高いようです。
実際もっとよく尋ねてみると、田口洋美さんが一九九四年の本『マタギ』に結実する調査(これは一九八八〜九年と思われる)で健二さんを訪ねた時、健二さんは和三郎の名を知らず、その時猟友会常勤職をしていた渡辺文雄氏に尋ねるが、渡辺氏もそれを知らなかった。後に渡辺文雄さんが移転先を訪ねて和三郎の名が分かり、それを健二さんにも伝えたという経緯があったようです。ちなみに田口さんの著書『マタギ』(p.136)でも健二さんの口からは「松橋」という姓の方しか出てきていないのです。
つまるところ高橋健二さんは和三郎さんに会ったことも見たこともないのではないかと思えるのです。健二さんのお話では、はじめ和三郎は勝治さんの息子であると考えていた風が見えます。とすると、健二さんは、豊沢の松橋さんの家で、むしろ勝治さんの息子の勝美さん(もしくは他の息子さん)を見かけたのではないでしょうか。というのも、健二さんは、その人(彼が和三郎だと思っていた松橋家の人)は体が大きい人ではなかった、と言っていたからです。勝治さんは偉丈夫だときいていたので、わたしがその人の体格のことを尋ねたのですが。その時健二さんは二十五歳、勝美さん十七歳。そして勝治さんは四十四歳です。
小さなことかもしれませんが大きな発見です。そして渡辺洋一さんが立ち会ってくれたこともとても大きなことです。というのも非常に簡潔な健二さんの言葉が実際どういういことを意味しているのかということを渡辺さんは一つ一つ聞き質してくれて、この聞き取りでは健二さんの言葉に対するこちらの誤解がほとんどないと確信できるからです。雫石で渡辺さんに出会えたこと、それはほんとに奇跡に近いほど素晴らしいことだったと思えるのです。
ですから「フィールドワークは順調に行っているか」というあなたの質問に対する答えは、奇跡のように素晴らしくいっている。わたしはここのところ本当に運がいい、ということです。(あなたとの出会いもその一つです。)
花巻へ行ったのは、一つは「カツオヤジ」のことを教えてくれた藤井行雄さんに、先に纏めた『宮沢賢治・花巻見聞録一〜六』http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/MiyazawaKenji/MiyazawaKenji.htm
をお渡しして、修正すべきところがあれば教えていただくことでした。
そしてもう一つは、松橋さんのお宅にうかがって、和三郎さん、勝治さん、勝美さんに線香を上げさせてもらうことでした。ほんとうはこの一事のために花巻に行こうとしていたのです。そのことも叶いました。昨晩のことでした。
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