松橋勝美さんの奥さん
--- 宮沢賢治・花巻見聞録 08 ---


中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie





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   ◇◇◆ 花巻・鉛 八月二十九日の見聞 一

 八月二十九日も朝はゆっくりして旅館を出た。朝も岡村民夫さんに会いたかったのだが、多分わたしがもたもたしていたからだろう、気がついた時には学生たちを連れて宿を出たあとだった。わたしはもう一度入ってから発つことにして立湯に行った。適当に熱く何度入っても快適だ。

 出てから売店に行った。だが昨日とはは入口が違ったらしい。昨日とは別のおばさんが売り子をしていた。おだやかな雰囲気の人だった。ちょっと立ち話をして、そして牛乳をもらった。昨日飲んだ青色の瓶のがいいと思ってきいたが、それはないということだった。わたしはそれを聞いてはじめて昨日とは別の売店だと気づいたのだった。奥を見ると背中合せに二つの売り場が繋がっているようだった。昨日のおばさんの後姿もわずかに見えた。ともあれそういうわけなので薄オレンジ色の瓶の牛乳をもらって飲んだ。それも美味しかった。

 この日は車に乗って藤井さんのところへ行った。藤井さんは調べてわかったことをいくつか整理して教えてくれた。「カツオヤジ」のほんとうの名は勝治で、姓は松橋、そして生まれは明治二十五年、その父は和三郎で秋田から来た人だった、ということである。

 また勝治さんの長男の勝美さんの生年は大正九年だということだった。

 そして肝心の和三郎の生没年だが、それはわからない、ということだった。

 またこのあたりの当時の熊狩りのやりかたとか儀礼についてだが、それについては教えてくれたのが勝美さんの奥さんで、女性だけに何も知らないということだった。水垢離の習慣についてもわからないということだった。和三郎さんの容貌について、それが宮沢賢治が『なめとこ山の熊』で猟師小十郎について記している「赫黒いごりごりした親父」という雰囲気の人だったのかどうかもわからない。というか、それについては特に尋ねていないようだった。

 わたしがなおも知りたそうにしているのを察して、藤井さんは電話で直接松橋の奥さんに話せるようにしてくれた。勝美さんの奥さんである。

 藤井さんから電話を替わってもらって、手短にわたしが調べていることの主旨を語った。宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の猟師小十郎のモデルのことを調べていて、それは松橋和三郎だという説があるのだが、写真とかで和三郎の容貌がわかるようなものはないか。賢治は小十郎のことを「すがめの赫黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらゐはあったし掌も北島の毘沙門さんの病気をなほすための手形ぐらゐ大きく厚かった」と書いているのだが、と。賢治が小十郎を決して美丈夫として描いていないので、こう尋ねることがとても失礼なことになるということはわかっていたのだが、あえてその通りに紹介して尋ねたのだった。

 答えは、和三郎はわたしのところの祖父です。和三郎が小十郎のモデルに比されているのは知っている。しかし容姿とかはわからない。生没年もわからない。わたしが嫁に入ったのは昭和二十三年だが、その時には和三郎はすでにだいぶ前に亡くなっていた。
 そういうことを非常に冷静に、そして明晰に語ってくれた。その答えに、わたしはその電話口の先にいる人が非常に頭がよく、賢く、立派な女性であるのを感じた。そしてさらに尋ねた。

 それでは勝治さんの方はどうだったのでしょうか。生没年はさっき藤井さんから聞きました。容姿はどうだったでしょう。賢治が描く小十郎に似たところはあったでしょうか、胴が臼のように太いとか、と。
 勝治さんは大きい人でした。背も高くてがっしりしていました。太さは普通でした、と、その電話先の松橋夫人はきっぱりと答えた。それは疑いえない判断だ、とわたしは感じた。だから、少なくとも容姿の点で、小十郎のモデルは勝治ではなく、またおそらくは和三郎でもない。それは多分賢治が空想でイメージしたものだ、とそのときわたしははっきりと感じた。

 さらに、狩りに行く時のことを尋ねた。狩りのことはよく分からない。秋から冬にかけて熊を獲って歩いていた。春にも獲っている。いつも親子二人で山に入っていた、と、そういう答えだった。
 勝治さんは息子の勝美さんをつれて山へ入っていたのだ。和三郎もそうして勝治さんを連れて山へ入っていたのではないだろうか、とわたしは尋ねた。そうだったようだ、と松橋夫人は答えた。
 二人で熊狩りをしていたのであればそれは巻狩りではない。穴狩りか、出グマ狩りのはずだ。春のは出グマ狩りだろう。秋から冬にかけてはワナと跡追いをともにやっていたものだろう。奥さんからはとても重要なことを聞かせてもらった気がした。「カツオヤジ」の狩りの姿が少し見えるようになってきた。   (2006.9.29)

   

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