松橋家の方へ
--- 宮沢賢治・花巻見聞録 09 ---


中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie





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   ◇◆◇ 花巻・鉛 八月二十九日の見聞 二

 わたしはなおも松橋和三郎の生没年が知りたかった。それがわかれば和三郎が宮沢賢治の『なめとこ山の熊』のモデルとして、年齢が適当なものかどうかがわかるからだ。そんなことを藤井行雄さんと相談していた。役所へ行って戸籍を調べさせてもらえばわかるかもしれない。だがそんなことはあまりしたくない。他人の戸籍を探るなどということは。たとえ学術的な意味があるとしても、それは避けたいことであった。そして調べたところでそこまでの記載があるかどうか疑わしい。勝治さんの生年から推して明治の始めか、あるいは明治以前のはずだ。それだけ戸籍が整理されているものかどうか。

 さらにまた、昭和のはじめごろの山の仕事について知っている人から、当時の豊沢あたりの様子を聞きたかった。その豊沢の人々の生業の中で松橋一家の狩猟を中心にした生活はどんな意味をもっていたのか。どんな受け入れられ方をしていたのか。そんなことを知りたかった。そしてそういうことを知った上で、宮沢賢治のイマジネーションがどれほど岩手の山村の猟師の生活に届いていたのかを考えたかった。そして狩りのために山に入る時水垢離をとる習慣があったのかどうかということも知りたかった。はっきりとは知れないにしても、その推測だけはつけられる知識をもちたかった。

 相談がてらそんなことを話していると、藤井さんは、豊沢から花巻に出てきた人たちのことを幾人か思い浮かべてくれていた。そして、ともかく行ってみるか? ということで松橋さんの家の所在地を教えてくれた。それだけ信用してもらえたことが嬉しかった。


 わたしは鉛を離れた。久しぶりに離れた気がした。ずっと藤井さんの助けによって事情がわかってきていたのだった。藤井さんに信用していただけなかったら何一つわからなかったことだろう。はじめはこの村の山神神社について尋ねたのだった。そこからこれだけものが見えてきたのだった。

 そうしてわたしは鉛を後にした。ここからはまた新たにひとの好意に頼らなければならない。

 車にナビが付いているので、住所だけですぐに場所が探せた。藤井さんが住宅地図を出して教えてくれていたので国道とか小学校とかからの位置関係はしっかり頭の中に入っていた。そうしてわたしは松橋さんの家をたずねた。

 松橋さんの家はすぐに見つかった。だがお留守のようだった。何度ベルを押しても応えがなかった。

 この日はとても暑い日で、わたしも少し疲れていた。それでまずは車で、行きに見つけておいた近くのコンビニに行った。そして疲れの取れそうなコーヒーを買って飲んだ。そして松橋さんのところに電話をかけた。だがやはり留守だった。

 再び車を運転して、道を確かめつつ近所を走った。トヨタレンタカーの店舗の位置も確かめた。返却場所の確認である。そこからすぐ近くだったのだが。

 そうしてもう一度松橋さんのお宅を訪ねた。やはり留守だった。松橋さんがお留守なら、残された時間で豊沢のことを知りたい。近所でだれかに尋ねよう。そう思って車を動かし、じゃまにならないように角の鳥居の中に止めた。

 その鳥居のところ、その奥に大きな石碑を並べた祭壇があった。中央に出羽権現の石碑がありその隣に同じく大きな念仏塔の石碑が据えられていた。そしてこちらは字が新しく朱で塗られていた。毎年塗り直しているものらしい。ここの神域は出羽権現社と呼ばれるところのようである。その社地の土地代の寄附者の名札が掲げられており、その中に「松橋勝美」の名があった。その他はほとんどが高橋姓の人たちだった。これらはおそらく豊沢からもってきた石碑で、神社は豊沢から移転してきた人々の神社だ。このあたりは豊沢からの移住者が多く住んでいるところなのだと推測できた。念仏塔には明治十四年巳年の刻印もあった。わたしはそれらの石碑に礼をして次になすべきことを考えた。(2006.9.29)



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