この歌はとても偉大な歌ではないだろうか? あるいは少なくとも人と人との関係の極限を、ひとつの極限的なところを歌っている歌なのではないだろうか? わたしにはどうしてもそう思えるのである。
それはどういうことなのか? あわてずに考えてみよう。
歌は、よく似ていながら微妙に異なったフレーズを二度繰返す前奏の後にはじまる。それはこう歌い出される。「もしも君に巡り逢えたら/二度と君の手を離さない」と。いきなりだが、この決意は、人として、とても偉大なことではないだろうか? この言い回しには、しかしとても微妙なテクニックが含まれている。というのも、普通であれば「もしも君に巡り逢えたら」とは、まだ出逢っていない者の懐く期待であろう。しかしこの歌においては、二人はすでに出逢っているのである。そして、私は、すでに一度は君の手を離してしまっているのである。でも、もし今度出逢えたら、もう決して手を離さない、と、そう、優しく、しかしはっきりと決意しているのである。この決意は、美し心ばえではないだろうか。
しかしほんとうの問題はその先のところにある。もう一度「君に巡り逢う」のは、いつのことなのだろうか? この歌が包む時の大きさは、この問いとともに広がってゆくであろう。しかし歌詞はその問いとこたえを、そのポエジーにおいて、すでに冒頭のほんの三行で与えてしまっているのである。しかもきわめて的確に。「春の終わりを告げる 花御堂」と、その第三行は語る。花御堂とは、四月八日の花祭、つまりお釈迦様の誕生の祝の日に、その像をお納めする小さなお堂のことである。この日人々はお釈迦様やそのお堂を花で飾り、甘茶をかけて、その生誕を祝福するのである。お釈迦様だけがこたえてくれる、と人々が期待する願いがあるのである。それは輪廻にかかわる願いであろう……。
しかし、この祝の日は、この歌の世界では、春の終わりと同時に営まれるものであり、春の終わりを告げるものなのである。ここで「春」とは、まずは二人の出逢いの日々であろう。「君と出逢った奇跡/緩やかな風吹く街で/そっと手を繋ぎ 歩いた坂道」と、そう歌われる日々である。しかしそれがこの日、この花祭りの日に、はっきりと終わりを告げられるのである。
にもかかわらずここでお釈迦様は、その生誕を祝福されている。そしてまた「もしも君に巡り逢えたら」という願いは、その祝福と結びついている。それはなぜなのか?
それは、この巡り逢いの願いが、今生の、この世での出逢いとしてではなく、むしろ後の世での出逢いとして願われているからなのである。そうして、時は、この世の生の時を越えて、後の世にまで広がっているのである。
そしてそのことと表裏一体となって、この世での再会は、ほんとうはもうあり得ないことで、すでにもう願うことのできないことになっているのである。そのことを歌詞は後の方で、「散らざるときは戻らなけれど」と、やや危うい表現で語る。ほんとうはこの上なく激しい絶望が、ここにひそんでいるのである。
だから、「もしも君に巡り逢えたら」とは、ほんとうは、わたしたちが死んで、またこの世に生れてきて、そしてその時また巡り逢えたら、ということなのである。だから「花御堂」なのである。今生の別れと、後の世の出逢いを繋いでくれるもの、祝福してくれるもの、お釈迦様の他にそんな存在があるだろうか? 「花舞う街」とは、だから、後の世の出逢いを、散り行く花とともに、お釈迦様が祝福してくれる、そういう街の姿なのである。
そして"Time after time"である。これは「繰り返し」を意味しているであろう。幾度か繰返されること、一度では終わらないことである。この言葉は歌詞の中で三度使われている。それぞれ「君と出逢った奇跡」「ひとり 花舞う街で」、そして「君と色づく街で/出逢えたら」という詞を従えている。過去に出逢いがあった。しかしそれは「奇跡」だった。そして今はその同じ場所にひとりでいる。そして、もしもまた出逢えたら、という願い。であれば、"Time after time"(幾度か)とは、願いの中のことである。あるいは、願いそのものの形である。問題はその繰返しが、いつに期待されているか、ということであろう。
歌詞は、二人はかつて約束をした、と語っている。「いつかまたこの場所で 巡り逢おう 薄紅色の 季節が来る日に 笑顔で」という約束である。「いつか」と言われている。約束は来年を約束したわけではない。五年後でもない。いつかである。この言葉には期限(term)がない。だからこの言葉とともに約束された時は先へと広がり、そして今生を越えて、また二人が生れたらという後の世にまで広がってゆくのである。
わたしたちは日本の歌謡曲の中で、このような時間をもったことがあるだろうか。約束が、今生からずっとつながって、後の世にまで広がってゆく、そういう時間を。あるいはこう言えるだろうか。「約束、ないしは誓いの贈与は、後の世にまで続く時を与える」と。
もちろん、「今度生れたら云々」という未練たらしい歌はいくらもあることだろう。ほとんど我執しか感じられないようなそういう歌は、実際いくらもあることだろう。しかし、たとえば「誰よりもずっと 傷つきやすい君の/そばにいたい今度は きっと」という倉木麻衣の詞に、われわれは我執とはまったく性質の違ったものを感じるのである。
我執ではない、むしろある種の清潔感をわれわれがこの歌にに感じるのは、多分その肯定性によるのである。花祭の祝福にみずからも加わり、その花舞う街を祝福するその感性なのである。ここには、後の世での出逢いと、その期待を繋いでくれるお釈迦様の誕生とを祝福する人々の願いが肯定されている。
それをこんなにも美しく、優しく、歌い、祝福した芸術が、かつてこの国に存在しただろうか。わたしはそれを知らない。倉木麻衣と大野愛果のこの曲は、まさしく、この時代の深さと優しさを久しく記念するものとなるであろう。
そしてわたしがひそかに、大いに興味をそそられていることなのだが、彼ら(倉木・大野)だったら、大和の大神神社の「花鎮めの祭」をどんな風に受けとめるだろうか。もし彼らによって「花しづめ」というような曲が生れたらそれはどんな歌になるのだろうか。花鎮めの花は、花祭の花とはまた違ったものに思えるのである。気が触れそうになる花、というものもあるであろう。興味はつきない。
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