倉木麻衣の "Reach for the sky"
---笑うことは肯定すること---
Ver. 3.2
Since 1 February 2004


Presented
by


中路 正恒
Masatsune NAKAJI



 ◆ ◆ ◆ 

 倉木麻衣の歌の中でも "Reach for the sky" は、わたしの特に好きなものの一つなのだが、わたしはそのテーマを長いことうまく捉えられないでいた。それについて少し考えてみよう。

 歌は「笑い」を勧めている。その笑いが、空へ向かっての笑い、そして空まで届くような笑いなのだ。こんな笑いを、これまで日本の歌謡曲は思いついたことがあっただろうか。寡聞にしてわたしは知らない。おそらく、誰もいないのであろう。この笑いに一番近いものを思い出そうとすれば、これは笑いではないが、中島みゆきの「春なのに」のなかの、「ボタンを空に捨てます」という趣向だろう。自分の行為を、自分のある決定的な行為を、空とのかかわりの中で行なおうとするのである。他にも「この空を飛べたら」など、「空」にかかわる重要な曲をわたしは幾つか思い出すことができるのだが、中島みゆきは「空とのかかわり」というテーマを日本の歌謡曲の中に本格的に導入した歌手だ、と言うことができるだろう。

 しかし倉木麻衣は、その「空とのかかわり」というものを、言ってよければ、さらにデリケートで、そして滋養的なものにする。この "Reach for the sky" では、空へ向かって笑おうとする心の動きに、無理なものがひとつもない。その空への笑いは、日々の生き方と静かに、そして決定的に結びついている。そしてその笑いは「アハハ」という笑いなのである。

 この「アハハ」という笑いの、歌唱での解決も、とても見事で素晴らしいものだが、その素晴らしさは、分析よりも、歌唱そのものをよく聞いてもらうことによってよりよく理解されるだろう。最後の「ハ」の音が、フランス語のアクサン・シルコンフレックスのように、上がって下がるのだ。とんがり帽子のように。[ha]と上がって、そして[a,]と下がるのだ。そこには、笑いにえてして伴いがちな下品さが、微塵もない。音が下がるために、野放しにされた笑いの野蛮さがなく、穏やかに抑制された笑いになっているのである。微笑ましい笑いである。素晴らしい解決であると思う。そして、この歌い方でも、つまりこの笑いでも、笑いの本質的な力は十分に発揮されるのだ、ということをこの歌と笑いは教えてくれる。そう、「ツァラトゥストラの哄笑」として有名な笑いの、あの究極的な効果と同じものが、この倉木麻衣の笑いの中にもあるのだ。しかしそれは、ごくつつましやかに、個人的な人生の脈絡の中でだけ意味を持つ、そういう形の笑いになってはいるのだが。しかし、その永遠と通じる力は、間違いなくここにもあり、その永遠のもとでみずからの生を肯定をする力は、この美しい「アハハ」の中に、はっきりと姿をとどめているのである。倉木麻衣は、このアハハという笑いを歌い、そこへと人々をさそうことによって、永遠のもとでみずからの生を肯定する笑いの、つつましく、個人的で、そして晴れやかな形を、はじめて示してみせた、と、そう言うことができるだろう。

 ◆ ◆ ◆ 

 しかし、ここまで述べたことは、この "Reach for the sky" という歌の意義の、ちょうど半分にすぎないであろう。それは言わばその固有な〈高さ〉について語っただけである。わたしはまだ、この歌のテーマについては、まだ何も語っていない。それについて語ってゆこう。

 この歌のテーマは、〈永遠の結婚〉であると言うことができるだろう。歌詞の中の" ring" は、間違いなく結婚指輪を意味している。しかしそれは、現実の結婚指輪とは少し違ったものだ。このリングは金のリング、 "golden ring" であって、私はそれに向かって "reach for" するのである。この金のリングは、現実の結婚指輪ではなく、むしろ、永遠に輝きつづけ、みずから(=私)を照らしつづける、象徴的な、あるいは指標的な、指輪なのである。そういうものとして〈結婚〉が考えられ、そして〈永遠の結婚〉と言うべきものが、すぐそこのところに、待たれてあるように思えるのである。〈永遠の結婚〉とは、そのひととの繋がりを永遠のものとすることである。永遠の現実として、つまり永遠に肯定される現実のひとこまとして、自分とそのひととの繋がりを肯定することである。自分の、決して否認することのない現実として、そのひととの繋がりを肯定することである。その思いとともに、私は素直になり、心を解き放し、そして目をふせず、すべてを受けとめて生きてゆこうとするのである。(最も素直な心というものを示せること、そしてそのことをこそ歌と生きることの源にしようとする態度、そういうものがこの倉木麻衣という歌手を、他にはない色合いをもった存在にしているだろう。)

 ところで、"Reach for" とは、「手を伸ばして、触ろうとする、掴もうとする」ということである。たとえばChambers Universal Learners' Dictionary は、それを、"To try to touch, get hold of or take (something) by stretching out one's hand" と説明する。そして歌は、この "Reach for the golden ring" にすぐ続けて、 "Reach for the sky" と歌う。まるで金のリングと空とが、同じものであるかのようだ。金の指輪に触れようと伸ばされる手は、空へと伸びてゆき、そして空を掴もうとするのである。ここではまさに永遠化することが問題になっているであろう。丘の上で、私の上に広がる永遠の空の下で、二人の関係を肯定するのである。天空の永遠性と等しい性質を持ったものとして、私とそのひととの結びつきに、永遠の刻印が押される。笑うことは、肯定することであろう。それはこの、倉木麻衣の場合にも言えることである。このとき、もう受けとめられないものは何もなくなるのである。忌まわしいかったすべてのことが、今、明るい光の中の微塵になるのである。こころざしの中で否定的なものが一掃される。

 ◆ ◆ ◆ 

 しかし、それらはみな、少し先のところに見えるだけのものなのだろうか。すべてがさそいであり、いざないである。あの笑いもまた、「笑ってみようよ」といういざないであり、目をふせずに生きてゆくことも、そんな姿で「歩き出そう」というさそいである。しかしこのように、肯定されるものとしての未来の姿が見えている時、ほんとうの肯定もまたすでにどこかでなされているのである。私はすでに肯定的であり、すでに不退転であるように見える。この意味で、「さそい」は、歌の聞き手に対するさそいでもあり、祝福をわかち与えようとすることでもあるだろう。しかし、ただ「君」の動きようは、やはり究極的には分からないのだ。ただ多分、明日には、手をつなぎ、歩いてゆくことができるだろうと見える。「君」とともに、ふたりの繋がりを丘の上で永遠に祝福する時は、まだ訪れていない。〈永遠の結婚式〉は、まだ挙げられていない。二人で、高く広がる空にむかって、穏やかに、こぼれるように、アハハハハと笑いの声を上げるような時は、まだ訪れていない。〈永遠の結婚式〉は、まだ待たれるだけなのだろうか。

 しかし問題は、むしろ彼女の、絶唱のような訴えであろう。歌詞は(「歌」はという意味ではないが)「どんな時も ここにいて」という訴えでもって終わる。この歌詞が、決して絶唱に豊かなわけではない歌手の、強い訴えによって歌われる時、そこにはたいへん曖昧なものが残ってしまうのではないだろうか。二人が〈永遠の結婚〉の関係の中にあるならば、その時には「どんな時」も、共にあると感じられるだろう。その場合、どんな「時」も〈永遠〉の要素なのであるから。そのひとは、どんな時でも「ここにいる」であろう。だから、なぜそれを訴えなければならないのか。それは結局はこの思いが、私の、片方の思いだけだからなのだろうか。「撫ぜても尽きることのない時」のようなものは、現実にわかたれてはいないのだろうか(*)

 その疑惑は、丘の上で思いきりアハハと笑う、その時の充実の現実性に、とても深刻な疑いを残してしまうことになるだろう。わたしは、この倉木麻衣の、偉大ですらある笑いの理解と提示が、最後の最強度の訴えによって傷つけられてしましまっているのをとても残念に思う。

 たとえばリヒャルト・シュトラウスの "Morgen" のように、滋養のある、穏やかな、はるかな肯定の祝福とその予感の確かさに満たされて終わっていたら、わたしはこの歌をもっともっと愛したことだろう。


(*)山中智恵子『虚空日月』(国文社)の次の歌を参照。
   生生遠離のこころうち伏すあかときを撫づともつきぬ時といひにき
 また、同じ歌集の
   わがいのち (ゑま) ひに (かへ) すなかぞらは鳥雲の陣月に痩せたり
も、肯定の「笑い」の歌として紹介しておく。この上なく重要な歌のはずだ。
 

 了 

倉木麻衣の
"Time after time 〜花舞う街で〜"



Ver. 3.01 デザインの変更(「鳳凰」の壁紙使用)。(21 Aug. 2003)
Ver. 3.1  祝紅白成功メッセージ付加。(1.Jan.2004)
Ver. 3.2  上記メッセージ消去。(1.Feb.2004)

このテキストは、
2001年度京都造形芸術大学通信教育部の
スクーリング授業「哲学」で話したことをまとめたものです。
その授業では、他に倉木さんの「Secret of my heart」と
「Happy days」についても論じました。
それらの内容についても、これからこのホームページで公開してゆこうと思っています。
ご期待下さい。


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