永井陽子の「比叡山おばけ屋敷」歌のこと
14 December 2003

nomadologie

masatsune nakaji
中路正恒



  永井陽子の「比叡山おばけ屋敷」歌のこと

 歌人の永井陽子さんとは以前交友があった。といってもお会いしたのは数回にも満たない。学生時代、わたしが属していた京大短歌会に永井さんと同時に角川短歌賞候補になった友人がいて、その人とともに短歌人の集会を訪ねたのが彼女にお会いした最初であった。
 その後、一度京都に来てくれた。そのころ彼女は近畿大学の通信教育で学んでいて、そのスクーリングの機会に寄ってくれたのだった。夏の日のことだった。一乗寺向畑町のわたしの下宿に来てくれた。友人二人とともに三人で彼女を歓迎した。牛タンをひとかたまり買ってきて前日から煮込み、夕食にタンシチュウを作って皆で食べた。夜は彼女を囲み、夜を徹して連歌を巻いた。歌仙一巻ができ上がったはずだ。
 翌日、皆で比叡山に行った。そして山上のおばけ屋敷に入った。わたしは彼女と手をつないだ。しっかりした大きな手だった。おばけ屋敷の方は、暗いだけで、怖くもなく、何の変哲もないものだったが。
 その後も彼女との交友は続いていた。わたしが鞍馬に下宿をかわったときにも歌を一首作って葉書で送ってくれた。水上で鶴が云々という歌だった。同宿人から、「お鶴さんから葉書が来てるぞ」といって冷やかされた。その葉書は紛失してしまった。
 その後わたしは「短歌手帳」というとても元気の良い同人誌を発見してそれに入れてもらっていた。しかしやがてそのグループは解散になり、改めて岡野弘彦氏を中心とする「人」という集まりができた。わたしもそれに誘われ、入ったが、その時永井さんにもわたしからお願いして参加してもらった。わたしはその頃、作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンの強烈な影響の下、短歌の名のもとに、これまで存在したことがないほど緊密な音律的屈曲をもった作品作りを目指していた。それは当然、定型短歌ではなかった。しかし「人」には暗黙のこととして定型短歌に限るという約束があったようだ。わたしの新音律の試みは掲載を拒否された。わたしは「人」を去った。永井さんも行動を共にしてくれた。
 それと前後して、正確な時期は覚えていないが、永井さんは第一歌集『葦牙』を出した。わたしの方でも捌いてあげようといって、数十部を送ってもらった。しかしわたしの方の仕事は捗らなかった。そのうち彼女から手持ちが少なくなったので残部を送り返してほしいといってきた。それでほとんど売れていないまま残部を送り返した。わたしの遅滞ぶりにさぞ呆れたことだっただろう。申しわけなかった。そのまま彼女とは疎縁になっていった。その頃にはわたしも創作活動の中心をシュトックハウゼンの直観音楽の方に移していた。

 それから二十五年くらい経ってからのことである。あるとき山中智恵子さんから歌誌『日本歌人』を一冊送っていただいたことが機縁になって、再び短歌を始めてみたい気持ちになっていた。西暦一九九九年に「日本歌人」に入会した。永井陽子さんの死を知ったのは二千年の六月ごろのことだった。「日本歌人」に入会した時にも心には永井さんをたのむ気持ちがあった。いずれ一緒に行動できるだろうという期待があったのだった。
 彼女の死を知った後、七月二十二日、思いついて三月書房に行った。彼女の歌集を探した。あるだけ買って読もうと思っていた。一冊だけあった。『モーツアルトの電話帳』だった。カヴァーには彼女の写真がレイアウトされていた。そのさびしさを湛えた表情に胸を締めつけられる思いがした。以前、たまたま見つけた歌集の著者略歴から、彼女がどこかの短期大学の講師をしているのを知った。彼女らしい堅実で幸せな生活をしているのだろうと思い喜んでいた。だから、その写真の底なしのさびしさを湛えたような表情は思いがけないものだった。もっと早く連絡をとっておけばよかったと思った。『葦牙』の件以降、彼女の消息についてはまったく何も知らないできていた。
 歌集『モーツアルトの電話帳』の中に、

  比叡山おばけ屋敷はいまもあそこにあるのだらうか なう 白雲よ

の歌を見つけた。彼女もまた、四人で行った比叡山のおばけ屋敷のことをあたたかい思いでとして懐いていてくれたことがわかった。この歌が理解できるのはわたしたち四人だけのはずだ。そして今や永井さんにわたしの思いを告げるすべはない。この歌を詠んだ時、彼女はそれがわたしのところにまで届くと思っただろうか。彼女には少なくともそれを期待することはできた。しかし死後それを知ったわたしにはこの歌をみつけて懐く思いを彼女に伝えることができないのだ。この歌はあの時の比叡山でのあそびの祝福である。しかしその祝福そのものが、彼女亡き今、わたしには返すことのできない何かになってしまっている。呪いのような何か。この思いは抱きしめることもできない。永井陽子はこんな歌を幾つ作ってこの世を去ったのだろうか。生前に教えてくれていたらどれだけ嬉しかっただろうか。
 『モーツアルトの電話帳』からもう一首の歌、

  るるるる……と呼べどもいづれかの国へ出かけてモーツアルトは不在

 モーツアルトは、永井陽子にとって、親愛の思いを切なく懐きながらそれを伝えることのできない友だったのであろう。わたしも今、返すことのできない呪いのようなものを分散させたく、彼女の死を悼む歌二首を故人に手向けるとともに、彼女の「おばけ屋敷」歌の背景を語り、ひとびとの解釈の資としたい。

2003年12月23日



悼 永井陽子 二首

長野隆を悼む 五首
恐山へ --長野隆に-- 三首

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