Ars longa
--- 芸術の新しい概念を求めて ---

(「地域芸術学」への風 その6)

中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie

                            

   迂闊な話で申し分けないのだが、世に”Ars longa, vita brevis.”という言葉がある。「芸術は長く、人生は短い」と訳すものらしい。ラテン語である。わたしが迂闊な話だというのは、わたしがこの言葉の初出のテキストが何であるかをまだ明らかに知っていないからである。そしてそうであるにもかかわらずこうしてそれについて語りはじめているからである。しかし少しのことは言っておこう。この言葉を、わたしはともあれ高校のころから知っていた。そして芸術というものに少なからぬ傾愛を感じていたものであった。しかしそれは相当に雰囲気的なものであっただろう。


 後にラテン語の文法を習っていた時、テキストに当然のようにこの言葉が出てきた。何の難しいところがあるわけではない、簡単に訳せる練習問題である。その授業に出ていた三人の中のだれがこの言葉の訳をすることになったのか、わたしでないのは確実なのだが、他の二人のどちらがやったのか今や知る術もない。しかしそのことはどうでもいい。問題はその時先生が、「この”ars”を芸術と訳すバカがいるが、これは技術と訳さねばならない」と強調されていたことだ。わたしもそのころには”ars”という言葉については多少は知っており、その先生の説明は自然に納得したのであるが、先生がこれは「技術」だと強調されたことについてはその後も強く印象に残っているのである。後で風説で聞いたところによると、ここで言われている”ars”は、直接には歯科の技工に関してのことであるらしい。ともあれ”ars”は技術である。現代英語の”art”も”ars”とほぼ同義である。


 ところで、わたしは芸術の新しい概念を探し求めているのだが、それは芸術の概念も然るべく拡張される必要があると感じているからである。芸術は美術にとどまるものではない。美の技術、あるいはその技術による作品は、場合によっては芸術でありうる。しかしそれは芸術の全範囲を覆うものではとてもない。このことはもう既に充分広く認められていることだろう。ではわれわれは今日何によって芸術を特徴づけることができるだろうか。われわれはそれを希望によって特徴づけることはできないだろうか。希望の術、あるいは喜びの術として芸術を特徴づけることはできないだろうか。底のない苦悩と絶望のただなかにおいてのことである。


 わたしはこれまでこの列島で生みだされた最高の芸術作品は亀ヶ岡出土の遮光器土偶であると考えてきた。それもまた確かにある希望を与えてきたものであっただろう。あの世とも関わるあるひそかな希望を。だが今思うのは、この列島における最高の芸術は苗代をもってする水田稲作の技術ではなかったかということである。この苗代や混植をはじめ多くの技術の積み重ねによって稲はこの列島の寒冷な地にまでもたらされうるものになったのである。それはこの列島の人々にどれだけ多くの希望を与えてきたことだろうか。この技術は今日にいたるまで継承されている。Ars longa(技術は長い)である。
(2005.12.16)



このテキストとほぼ同じものが
『季報藝術学』 2006年3月号
(京都造形芸術大学通信教育部芸術学科発行)
に掲載されています。
《地域芸術学への風》
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玉依姫という思想
---小林秀雄と清光館---




有職紋様:綺陽堂