内藤正敏のプリントによる
岡本太郎写真展

(「地域芸術学」への風 その1)

中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie

 今年の六月のこと、わたしは久しぶりに東北芸術工科大学を訪れた。内藤正敏さんが特別にプリントした「岡本太郎写真展」を見るためである。『別冊 東北学 Vol.4』で岡本太郎の写真の何枚かを見てから、この人の的確な目を感じて、大いに惹かれるものがあったのだった。本当の東北の姿がそこにあるように感じた。生活があり、生活とともにある人々の営みが、生活の一齣を通して、鹿踊りの一瞬を通して、職業の一齣を通じて、感じられたのだった。そこにはわたしが描き出し、創り出したいと思っている「芸術」があった。「美質」がしっかりと捉えられていた。かげろうのように、一瞬はっきりと姿を見せて、すぐさま跡形もなく消え去ってしまう、その生活の中にある美質が。その岡本太郎の写真を、内藤さん手焼きのプリントで見られるということだった。そんなスリリングなことは滅多にないことだろう。

 その写真展は、まったく素晴らしいものだった。あのポスターにも使われている「松例祭」(1962年)の写真は、言うまでもなく素晴らしい。闇の中から何事かが登場してくるそのあやしい瞬間を感じさせた。ヒエロファニーと、聖なるものが今現れるのだ、と言うひとはいうだろう。聖なるものは暗闇の中から現れると、そんな一般化もできるかもしれない。そう思わせる一枚であった。しかし、この印象、写真のこの見え方は、内藤さんの焼き方によるところが大きいものである。覆い焼きの技法を駆使して人物の白衣のまん中をことのほか明るくし、逆に雪道はほとんど何があるか分からないほど黒く焼き込んでいるのである。それは、『岡本太郎が撮った「日本」』(2001年、毎日新聞社)の中の同じ写真と比べれば一目瞭然である。その本のものは、白衣のデリケートなコントラストがそのまま出るように、フラットに焼いているのである。しかし内藤さんの焼きによる作品は、ここに、単なる写実の姿ではなく、一瞬、一秒の神秘劇を定着さているのである。何という深さが現われたことだろう。この「聖」の現出の一瞬を、岡本太郎も写し止めようとしたのであろうと感じられるプリントであり、また、このフイルムから引き出しうる最も深いもの、最も神秘なものがこのプリントによって現われた、と言いうるであろう。

 しかし、わたしがこの写真展で、驚きとともに「発見」した写真は、また別の写真であった。ひとつは津軽のある神社の境内で撮ったとおもわれる1962年のもので、高齢の女性が、孫を遊ばせているような写真だった。その女性の、しゃきっと背筋の通った美しさ。その女性には、威光がはっきりとあり、そのためその情景には、一瞬時間を止めてしまうような美しさがあるのであった。それは「老婆」という概念とは全く相容れない女性の存在だった。そんなシーンが生活の中にころがっている。津軽には、津軽の生活の中には、そんなシーンが当たり前のようにころがっていると、そんな印象をわたしは以前から津軽に対して懐いていたが、その写真は、四十年前の映像の語りとして、それをわたしに再確認させてくれたのだった。

 そしてまた1962年八戸のイタコさんの写真。その女性は晴眼をもってはいないようであった。当時であればイタコさんはほぼすべてが目の不自由な方々であっただろう。そしてその写真のイタコさんは、わたしが、その恐山デヴューの時の仏降ろしに強い感銘を受け、それ以来とても強い関心を寄せている現代の若いイタコである日向ケイ子さんと、どことなく似ているのであった。その写真は、ケイ子さんが、何十年か前に生まれていたら送っていたであろう生活を、如実に、深々と感じさせるものであった。生まれ落ちて以降、ほとんど動かすことのできないひとつの人生の形が、その写真には捉えられているのであった。

 そして岡本太郎のまなざし。今回の写真展ではじめて感じることができたことなのだが、岡本太郎の生活場面の中での写真においては、その画面の中に何人の人物がいても、彼は中のたったひとりの人物にだけほんとうの関心を払っていて、フォーカスもタイミングも、その人物だけに合わせている、ということがわかった。こうした「ひとり」に対する焦点のない写真は、岡本太郎には一枚もないのだ、ということを、内藤さんのプリントは教えてくれた。もちろん同時に何人かの人物に関心は払っているのだが、それはいわば状況説明であって、本当に写したいのはひとりだけだ、ということなのだ。これがわかり出すと、岡本太郎のネガを見る作業はとても楽しいものになってゆくはずだ。ワクワクする作業である。一齣一齣に、その焦点は何なのかを探ってゆけるのだから。そうして見てゆけば、狙いのとても掴みやすい写真のはずだ。要するに、狙いの曖昧な写真を、一枚も撮っていないはずなのだ。全体のバランスだとか、美的構成だとか、そういうものへの配慮が中心になることはまったくない。そのような、曖昧な美意識に訴えるような写真、いわゆる「芸術写真」を、岡本太郎は決して撮っていないはずなのだ。狙いは必ずひとりにある。あるいは一つに。人物の群像であっても、必ずその中のひとりに彼の関心は絞られているはずだ。そして多くの場合、そのひとの「目」に注目しているはずだ。もちろんそうでないこともある。たとえば1957年雫石の「あねっこ」の写真では、関心は田の向こうを見ながら立っている手前の女性の、左足の置き方に向けられているであろう。全身何とも色気のある姿だ。またその人物が、カメラを向けられて目をそらしていることもある。1957年の長崎の橋の上の男がその良い例だ。しかしこの場合でも、(写される男が)目をそむけるという関係を、彼はその男とはっきりと結んでいるのである。この関係を逃げないこと、この関係から逃げないこと、岡本太郎は、写真という方法の正義を、みずからしっかりと貫き、そしてそれをわれわれに示してくれているのである。被写体である人物、そしてその生活と向き合うこと、向き合って写真を撮ること、これが正義である。これがとりわけ重要なのは、彼が関心を持つ者がおおむね社会の末端にいる者、賤視されている者だからだ。そのように生活するより他すべがなく、そうして末端にいる者たちである。まさに末端の者として生活している者たちだ。そうした存在と向き合うこと。写真において岡本太郎は、そのことをきちんとしてきたのである。

 そうした態度の取り方をどうやって学んだのか、それを詮索する必要はないであろう。マルセル・モースの薫陶によると言う必要も全くないであろう。要するに、生きることと芸術行為が繋がるところ、そこには必ずその関係があるはずだからである。わたしは、岡本太郎の写真こそを芸術と呼ぶようなそういう芸術観を打ちたててゆきたいと思う。「地域芸術学」はそのための思索と実践を内容とするものになるであろう。



このテキストは
「地域芸術学」を興したいという
わたしの願いものもとに書き下ろされたものです。
同じものが、
『きらら』 2003年10月号
(京都造形芸術大学通信教育部発行)
に掲載されています。
東北文化研究センターHP

《地域芸術学への風》
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玉依姫という思想
---小林秀雄と清光館---




有職紋様:綺陽堂