岡本太郎の『沖縄文化論』
あるいは
芸術
という
〈いのちのたしかめ〉

(「地域芸術学」への風 その2)

中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie

 引き続き岡本太郎の思想や仕事について考えてみよう。
 岡本太郎の『沖縄文化論』は面白い本である。あるいは、人によっては、変な本だと言うかもしれないが。ともあれわたしにとって岡本太郎の『沖縄文化論』が面白いのは、とりわけそこに、彼自身が経験した「見方の転換」のようなものがうかがわれるからである。沖縄には、日本中のほとんどの地域と同じように、たいした文化財はなく、たいした芸術品もない。わたしは、人はそのことをあらゆる土地で確認することが重要だと思っているのだが、岡本太郎が沖縄においてそれをやっているところを辿ってみよう。

 岡本は「さらに私は首里で尚家代々の墓である有名な霊御殿(たまうどん)とか、博物館に集められた首里城の石造芸術の破片、旧王家の遺品、生活用具などを見たのだが、それらもすぐれた技術と、独自のよさをもっている。分厚でいながら、何か素朴で、重たくない。やわらかく流れている。その明るい流動感は、日本の芸術にもないし、また大陸にもないものだ。やはり沖縄の風土的なものなのだろう。日本の中世以降の芸術の重さ、アカデミックな形式の固さにがっかりしている私は、むしろこの方がいいと思う」と言う。ここで「さらに」とは、沖縄のとっておきの文化財である英祖王の石棺などを見た後でという意味である。およそこんな風にして彼は沖縄の代表的な芸術遺産を見てまわり、その日本にも大陸にもない独自の風を、重たくなく、やわらかく流れる「明るい流動感」として捉えているのである。この捉え方はとても素晴らしいものだと思うのだが、しかし問題はその先である。彼はこう付け加える。「しかしそれらの個性、よさを感じとりながらも、何かもの足りない。つまり、こいつはどうしても沖縄だけにしかない、というような凄みがないのだ」と。彼が沖縄の古典的な文化財から読み取るのは、それらは「いわば借りものであって、沖縄全体がそこからつき出てくるというものでは、残念ながらない。クリエートされた気配、その息吹が感じられない」ということである。そして彼はそこに「この国の貴族文化のひ弱さ、層の薄さ」を見てしまうのである。というのも、「文化の輸入は、みがかれたセンスと経済力があれば民衆生活とかかわりなくできる」ものだからである。そして彼はここに、「生活の地底から生まれ育ったものでない」輸入文化の宿命的なひ弱さを見るのである。そのような「輸入文化は、リファインされ体裁よくまとまってはいても何となく希薄なのである」、というわけである。

 われわれはここに岡本太郎の芸術・文化に対する基本的なまなざしをみることができるであろう。生活の地底から生まれ育ったもの、芸術として、文化として、それだけが強烈な力をもっているものなのである。

 このたいした文化財はないという印象は、石垣島に行ってさらに確認される。琉球列島には、そのどん尻まで行っても「何もない」のである。しかし彼の偉大さは、この「無さ」に正面から向き合うところである。「この何もないところに、実は沖縄文化論のポイントがあるのではないか」と岡本は言う。無さと向き合うことによって、彼には色々なものが見えてくるのである。色々な美が。まさに生活の地底から生まれ育ったさまざまな美が。たとえば島中にめぐらされている石垣の美、道を歩いているひとたちのハダシの美、着のみ着のままでありながら美しい人々の着衣、深く刻みこまれた皺だらけの顔の美しさ、また実用されているクバ笠や籠の美しさ、舟の形の美、等々。それら美しいものたちには「特定の作者、だれが創った、はない。島全体が、歴史が結晶して、形づくった」のである。つまり、ここにあるのはこの土地での生活のぎりぎりの必要性なのであり、このぎりぎりの必要性こそが存在するものたちの美を生んでいる、というのである。わたしはここでふと宮沢賢治の言葉を思い出す。賢治はある童話集の序の中で、「またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅(ら)紗(しや)や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました」と言っていた。賢治もまた「生活のぎりぎり」が美として輝く瞬間を幾度となく目にしていたのである。

 しかしここで是非とも確認しておきたいのだが、岡本が言おうとしているのは、笠やら籠やら石垣やらの民芸品の美を再発見せよというようなことではないのである。彼が言いたいのは、そして彼が追究しようとしているのは、究極的には〈モノの美〉ではなく、むしろ、そうした美を通して、直観され、感じとられる、永劫の時の流れなのであり、彼の言葉で言えば「悠久に流れる生命の持続」を感じとることなのである。そしてその永劫性や生命の悠久の持続を、逆に刹那において、「生活そのものとして、その流れる瞬間瞬間にしかないもの」において感じとることなのである。岡本はこのような生命の感動のなまなましく打ち震える時間を「根源的な時間」と呼ぶ。そして彼は芸術をこの根源的な時間とのかかわりで理解してゆくのである。そしてわれわれに「いのちのたしかめ」という卓抜な概念を与えてくれる。

 八重山の悲歌についての岡本の語りは、彼がいのちの真実を感ずる鋭敏な力をもっていることを如実に示している。ある日彼は石垣島の民謡の師匠、大浜津呂にさまざまな民謡を歌ってもらった。師は三線をかまえ、半ば眼をとじて歌うのである。しかし聴きいっているうちに岡本は、「やがて耳にしている曲が、ふしぎに、二重にずれて響いてくるのに気がついた」という。歌う声は純粋に流れているのだが、それに三線の音が執拗にまつわりついているように感じられたのである。そこで彼は、「三線ぬきで歌ってもらえないか」と聞いてみたのである。しかし大浜師は、なぜかその注文に応じることを渋った。しかし最後には岡本の熱意に動かされて、真相を語ってくれる。「これはほんとうは男女のかけあいでやるものだ」というのである。それで、「明夜あらためて来ておきかせする」ということになるのである。このエピソードには岡本のいのちに感応する純粋さ、その芸術的な力量がはっきりと示されているだろう。
 その翌日聴いた音楽についての記述は人間の声による芸術の極限の姿を示しているように思われる。「それは時には男声のモノローグであり、時には女性とのかけあいで歌われる。甲高い女の絶唱。異様に緩慢なリズムで、切々と流れてゆく。」「ぎりぎりに哀愁をぬりこめた、歎き、訴え。それは叫びの極限まで、いのちを振りしぼったという感じだ。[中略]だがそれは、にもかかわらず全体にのびやかな階調を失っていないから驚くのだ。悲哀を絶唱しながら、ゆるやかに流れる。それが本当の音楽なのじゃないか」。歌もまたぎりぎりのもの、ぎりぎりのものの声であり、それによる生きることの確かめなのである。



このテキストは
「地域芸術学」を興したいという
わたしの願いものもとに書き下ろされたものです。
ほぼ同じものが、
『きらら』 2004年1月号
(京都造形芸術大学通信教育部発行)
に掲載されています。
京都造形芸術大学通信教育部 サイバー・キャンパス

《地域芸術学への風》
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玉依姫という思想
---小林秀雄と清光館---




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