旧京北町の黒田村で松上げが行なわれているということはあまり人に知られていないのではないだろうか。この8月15日、私はその松上げに参加してきた。その村の夏祭りの一環として催されているものである。カヤの藁やスギの葉などを入れた籠(かご)を上につけた燈籠木(とろぎ)と呼ばれる二十メートルほどの柱を立て、その籠に下から松明を投げ入れるのである。その松明投げに、その村の住民ではない私たちが参加させてもらったのである。私たち、京都造形芸術大学の何人かの学生と教員が。その松明は、先に8月4日に、村の集会所で人々が集まって作ったものである。その松明作りにも私たちは参加させてもらったのだった。造形大ではこの松明作りにこれまで3年ほど参加させてもらっていた。だが、松明の投げ上げに参加させてくれたのは今年が初めてだった。
そんなことは、松上げを行なっている他の村では考えられないことなのではないだろうか。黒田の松上げは多少とも特殊な色合いをもっているように見える。村の長老のひとり吉田晴吉さんから聞いたところによると、黒田の松上げはこの村に花背から五、六軒の家族が移り住んできた時にその人たちの発案で始まったものだそうである。しかし始めるにあたっては村からの反発も当然にあった。「おまえらは神事としてやるのか遊びとしてやるのか、そこのところをはっきりせい」とただしたところ、「遊びとしてやります」という答えだったので許可した、と吉田さんは語ってくれた。ただ遊びとしてやるのしても精神だけはしっかりとしてやってもらわなければ困る、と吉田さんは毎年厳しく注意をしているようである。愛宕神社から火をもらってくること、参加者の潔斎、神事としての松上げにはそんなことは欠かせない。だがおそらくは二十メートルもの大木を立てるという技術の伝承も松上げの不可欠の要素だろう。二叉をいくつも使って、短いものから段々長いものに替えて、柱を立ててゆくのである。古代からのこの技術の伝承は貴重なことであろう。
だがしかし、神事ではなく遊びであるとみなされるこの黒田の松上げにも、ゆるがせにできない幾つかの要素はしっかりと存在しているのである。そしてそれゆえにこの松上げもほんものの近代の祭と考えられるものであるように思えるのである。
その第一は、松明の投げ上げ、投げ入れである。松明はひとが本気で力と技をつくして投げ上げることによってしか火籠の中に入ってゆかないのである。そしてそのためには松明そのものも、何度の落下の衝撃にも耐えられるように、しっかりと組み着けられていなければならない。けっしてゆるがせにできないところである。
また太柱を立てる技においても、クレーンを使ってやる黒田のやり方には、伝統的なものとは別種であるとはいえ、新しい技の開発と学習と練磨と伝承があるのである。黒田の松上げは今は廃校になった小学校の校庭に一時だけ燈籠木を立てて行なうものである。八桝のように河原に永続的な施設を作って備えておくわけではない。だから、籠に火がついて、燃え上がって、そして柱を倒す時にも、然るべき安全な方向に倒すために黒田では八桝にはないまた別の技術がいるのである。クレーンを使って燈籠木を立たせ、それを然るべき方向に調整して立て、三叉に縛って据えつけることも、これはこれでゆるがせにできない技の修練なのである。
投げ手として参加した人々の何度も何度も繰返される本気の投げ上げ、一番の松明が火籠に入って大松明に点火した時のうれしさ、そして頭のはるか上で燃える大松明の詩情ある美しさ。それらはこの廃校になった小学校の校庭を年に一度だけ「詩的な場所」に変えるものではないだろうか。横の繋がりを柔軟に広げてゆくこの村の松上げは、われわれに厳格な神事もすべて歴史を持ったものであることを教えてくれる。そしてそれはまた、最近東北芸工大の飯田恭子氏が積極的に展開している、デトレフ・イプセン氏の「詩的な場所 (Poetische Orte)」(『村山学』創刊号、東北芸工大)の概念による地域の新しいアイデンティティー作りへの試行を、現実に示してくれているように思えるのである。
---小林秀雄と清光館--- |
その他にも今年の夏祭りでは、造形大の学生が入口のアーチ造りと、花火の打ち上げを担当させてもらった。入口アーチはユニークでなかなか面白いものだったとわたしは思っています。
過疎化してゆく村に対して、大学に何ができるかということ、このことをそれぞれの大学は真剣に考え、実践を試みるべきではないでしょうか。わたしは、芸術大学の教員として、まさにここに新しい藝術概念を見出し、実践すべき場所があると考えています。わたしたちの試みにたいしてご支援をいただければ幸いです。
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