「地域学」を学ぶ人のために

(「地域芸術学」への風 その5)

中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie

                            

 「地域学」と総称されうるような知の領野がここのところ少し広がってきているように見えます。日本中のほとんどの人が、自分の住んでいるところを昔の国名で呼んで、それに学を付けてみれば、何となくひとつの地域学の名称ができてしまうのではないでしょうか。そうやって昔の国名で自分の住む地域を呼んでみるのも、地域区分とは何なのかを考えるためのひとつのきっかけになるでしょう。それぞれ、それなりの理由があって区分された土地に違いないのですから。

 ところで、わたしたちの「地域学」は、近代的な地域の考え方、つまり日本(大日本帝国/日本国)の領土のあらゆるところに均一の国法が行き渡り、国民(臣民)はこの国のどこへいっても同じ権利と義務をもち、また法律以下のところでも基本的には同じ仕方で生活をすることができるべきだ、という考えにある種の疑問を感じるところからはじまっています。

 たとえば松茸が、今のところ、赤松林を離れては生存できないように、ある土地を離れては成り立たない生の形というものがあるように見えます。そういう生は、そういう仕方で、その地域において大地とつながっているのです。しかしわたしたちの近代主義は、あらゆる場所に同じものがあることを求めてきたのではないでしょうか。人間の大地とのつながりはどうなってしまったのでしょうか。

 わたしたちの「地域学」は何よりもそのことを考えたいと思っています。その問題を自分の居住地や、自分に縁のある土地から考えてみて欲しいのです。大地とつながって生きるとはどういうことなのか。それが失われているなら、取り戻せるものなのか。どうすれば取り戻せるのか。それともそもそも必要のないことなのか。あるいは、自分はわからないけれどそのつながりをしっかり掴んで生きている人がどこかにいるのか。そのひとはどんな智慧をもっているのか。そんなことを探求してもらいたいのです。そして大地とのつながりを知る何かを自分のものにしてもらいたいのです。そんなことをわたしたちは期待しています。



このテキストとほぼ同じものが
『雲母』 2005年9月号
(京都造形芸術大学通信教育部発行)
に掲載されています。
《地域芸術学への風》
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玉依姫という思想
---小林秀雄と清光館---




有職紋様:綺陽堂