蛍の季節になると思い出すことである。最近は貴船に蛍が少なくなってしまったが、十年前にはまだ十分楽しめるだけの蛍がそこの谷間に舞っていたのである。そして貴船の蛍は、谷が深いだけに、とても高さのある飛び方をする。とてもダイナミックなのだ。また高所にとまっていると、星と見分けがつかないこともしばしばだ。この貴船の蛍を、川面を舞い飛ぶさまに描いたり、思い描いたりするひとが少なくないが、それでは和泉式部の歌もまったく誤解してしまうことになるだろう。式部の歌とは『後拾遺集』の、
物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
の歌のことである。
もちろん川面を飛ばないわけではないのだが、貴船の蛍の魅力は何といっても人の頭の上二、三十メートルのところを舞ったり、舞い下りてきたりするその高さのダイナミクスなのだ。
以前は毎年、希望する学生を連れて、夜中に見に行ったものである。たいていは(歩かなければ町に戻れないことを覚悟して)十時半頃の最終の叡電に乗って貴船口まで行く。そこから適宜蛍を見ながら歩き、丑三つ時ぐらいまで奥宮にいて、そしてそれから歩いて大学まで帰ってくるのである。帰り着く頃には朝も充分明るくなっていて、そんな中、たいてい足を引きずりながら上終町にもどってきて解散になる。
それも最近は、いろいろな事情から、あまり行かなくなってしまった。
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ところで、『新古今和歌集』にはこんな歌がある。
いく夜われ浪にしほれてきぶね河袖に玉ちる物おもふらん
多分百人一首の「きりぎりす」の歌で多くの方がご存知の藤原良経の歌である。彼はわたしのとりわけ好きな歌人のひとりだ。そしてこの貴船川の歌。これは何とも清新な歌ではないだろうか。ひとを恋い思う心のまっすぐな形。心は川水にぬれてとても弱くなってしまう。そして涙。しかし涙は川水と一つになってゆく。その慰め。そしてかなえられるかもしれない祈願。しかしこれがいつまでつづくのかという心もとなさ。
この歌はもちろん前掲の式部の歌と、それに対する貴船明神の返歌(奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ)を踏まえている。この良経の歌は、人でないものになってしまいかねない式部のような思いを、一撃、目覚めさせる清純さをそなえているのではないだろうか。そしてその清純さに、ひとは「拉鬼」の力を見たのではないだろうか。そんなことをいつかまた詳しく語ってみたい。
---小林秀雄と清光館--- |