松本哲男の滝の画を見た。大瀑布の大パノラマ。ナイアガラの滝、ヴィクトリアの滝……。その雄大さの確かな手応えがあった。わたしもまたわたしの滝について語ってみよう。
わたしも滝が好きだ。とりわけ那智の滝と飛騨の平湯大滝が。これらの滝には何度も行っている。飛騨はわたしがメインにしているフィールドで、平湯大滝にはとりわけ何度も行っているのだが、この滝の流頭に陽の光が射すことがある、ということを知ったのは迂闊にも竹内敏信の写真によってだった。それは六月に撮った写真だということだった。だがそれが何日の何時ごろの光景なのか、それが皆目見当がつかなかった。
その後の六月のある日、わたしも出かけて、午後の四時ごろから、西の山々に陽が完全に隠れるまで、ずっとその滝のところにいた。だがその滝に陽が射すことは全くなかった。滝は西面している。向かいの山の稜線と微妙な位置関係が成り立つときにだけ陽が射すのか、と考えたのだった。とすればほとんど毎日行かないと見ることができない光景なのだろうか? 今から三年前のことだった。
その年のある台風の日の翌日のことだった。朝、高山を出てこの大滝を見に行った。そのすさまじい水量、飛沫、耳を聾する轟音、そして濁った水の落下。激しい怒濤が熄むことなく続くのだった。一度でもこの大滝を見たことがあるひとならこれらについて容易に推察がつくだろう。さらに、時々、滝を、人の頭ほどもある石塊が、水とともに落下するのだ。その激しさ。
しかし、それだけではなかった。その流頭に、何と、光が射したのだった。その、世界の開闢のような光! 長く続いたわけではない。はじめは二,三分のことだっただろう。それから、時々光が射すようになった。やがて十分ぐらいは続くようになり、そしてまたかき曇って、光は消えた。流頭の光は、何と南東から、滝の背後から射すのだった。そして今しもそこを落ちかかる水と、それに混じる石塊を照らすのだった。わたしが滝の悦びを知ったのはこの時ではなかったか。悦びの声を上げて落ちてゆくのだ。水も、石塊も、水塊も。轟音のすべては滝の水塊たちの悦びの声なのだった。そのように聞こえた。悦びの、そして歓喜の声をあげながら落下してゆく水たち。そしてそのスピード。速度。たたきつけられるまでの息もつかせぬ速さ。
グレン・グールドの弾くベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ。その最終楽章。そのカンタービレを聞く時、わたしはこの落下する滝の水の悦楽を、他ならぬその滝のエクスタシーを感じるのだ。---見る者としてではない。落ちてゆく水として。
この落ちてゆく水塊の悦楽をわたしは写真に撮りたいと思っている。そしてその厳粛さを。
那智に来て滝の時間に逅ひにけり心死にゆくばかり明るき
山中智恵子のこの歌(『風騒思女集』)もまたその落下の悦楽から生れる時間のことを語っているように思えるのである。
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