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J. S. バッハの「アンナ・マグダレーナのための小曲集」に収められた曲の 中に、次のような詞のついた曲がある。
わたしはこの曲を、シュワルツコップの歌で、あるいは
TRAGICOMEDIA の演奏で、時々聞いているのだが、そのシュワルツコップのCDにつけられた西野茂雄氏の訳を紹介しておくと、それはこうである:是非一度聴いてみてもらいたいのだが、この曲は、わたしには、私の死、つまり私が死ぬということに対するキリスト教徒の態度
(Gesinnung)、 というべきものを、とてもよく表しているように思えるのである。この歌で ‘du’(御身・あなた)と呼び掛けられている者、それは神とも考えられるし、またとても親しい、あるいは恋しい誰か、とも考えられるだろう。わたしは>これを神と考えたいのだが、いずれにせよ、私をそのまなざしで包み、私の生と死の意味を掬い取ってくれるべき者だ。そういう者が間近なところにいてくれるなら、私はよろこんで死におもむこう、というのである。この、とても穏やかな曲も、しかし、そこに、恐怖や疑念が、まったく存在していない、というわけではない。死は、ここでは私の、つまり一人称の問題として捉えられており、私が死におもむく、という孤独な、この上なくシンギュラーな問題が、ここで問題とされている。そして歌は出だしからして、問いかけの形で、つまり、
‘Bist du bei mir’ 「あなたはわたしのそばにおられるのだろうか? それならば・・・」という形で始まっている。ここには明らかに、答えを与えられていない問があり、そういう問のあやうさがある。そして、先述した、私の死に対するキリスト教徒的態度、あるいはその思索のすべては、すっかり、この問のあやうさの上に乗っかっているように見えるのである。そして、死に対する恐怖も歴然としている。決して眼をそらせたりしているわけではない。また、答えのない仮定の上にみずからの安らぎ (meiner Ruh) を載せていることのあやうさそのものに対してさえ、必ずしも眼をふさいでいるわけではない。にもかかわらず、ここにおいては既にひとつの選択がなされており、ひとは、「あなたはわたしのそばにおられる」という仮想の上に、死に向かうみずからの生を載せることを決めているのである。そうして、そうやって、みずからの究極の安らぎをかちえようとしているのである。・・・しかし、とはいえわたしは、みずからひとりおもむく死に面して、安らぎを求めてはならない、と、言いたいわけではない。あの韓愈でさえ、「胡為(なんす)れぞ浪(みだ)りに自(み)ずから苦(くる)しむや/酒(さけ)を得(え)ては且(か)つ歓喜(かんき)せよ」(「秋懐詩 其一」)と語っていたのではなかったか。むやみに苦しむことが、よい、というわけではないであろう。
しかし、わたしがここで言いたいのは、このようにして自らを恃するキリスト者も、みずから深いふかい〈あな〉の中に、神のまなざしさえ届かぬ深い〈あな〉の中に沈んで行かざるをえない、そういうことがあるのだ、ということである。そして、神は私がそういう場所に沈んでゆくことをひきとめることができず、またそこに沈んだ私を救うこともできない、ということなのである。「神の死」とは、まさにこういう事情のことを言っているのではないだろうか。少なくとも、ニーチェが素っ気なく、「そんなことは分かり切ったことだ」と言うとき、「神の死」とは、神の、このような本質的な無力さのことを意味しているのである。
このような〈あな〉のなかに陥ること、それは多分一種の「病気」、ではあろう。しかしこの病気は、「ほんとうの病気」と呼ぶべきものなのだ。アントナン・アルトーは、ジャック・リヴィエールとのやりとりの中で、相手にみずからの状態を根気強く説き、それが「ほんとうの病気」である、ということをきわめて強く主張していた。「ほんとうの病気」、それは、アルトーの表現によれば、「時代の現象などではなく、存在の本質に、その表現の中心的な可能性にかかわり、一個の生の全体にあてはまる病気」であり、「ほんとうの麻痺であり、ひとから言葉を奪いとり、記憶を奪いとり、ひとの思考を根こぎにする病気」、であるという。この「病気」は、アルトーが言うように、時代的な現象ではなく、存在の本質に刻みこまれているようなもの、それゆえだれもがそこに陥る可能性をもっているもの、一つの深い〈あな〉なのである。
そして注意すべきことは、そのとき、私の思考は根こぎにされ、私は、言葉から乖離させられ、言葉で表現される〈私〉から乖離させられる
(Je suis au-dessous de moi-même)、ということである。 (〈私〉という記号を、ここでわたしは、私がみずからがそれであるとして表示しうる、客観化されうる場所のこととして使う。)それゆえにこそアルトーは、この「ほんとうの病気」において、私は私の絶対的な非実在性に苦しんでいる、とか、私のトータルな不在が問題なのであり、私のほんとうの消失が問題なのだ、と繰り返し語るのである。それゆえ、次のような表現、つまり、「私は自己のこの永遠の不在者であり・・」 (Je suis cet éternel absent de soi-même) とか、 「この私には、私はこの世界に存在していない、と、ほんとうに、言うことができるのです」とかいう表現を、われわれは文字どおりに理解しなければならないのである。そしてこのとき、われわれには、ここから、おれは「透明人間だ」と記した、と伝えられる、神戸の某少年の姿が、覗けてきはしないだろうか。この「自己の不在者」、この私の〈私〉からの乖離においては、私が、強さをもって流動するイメージの強度に蹂躙されて流れつづける以外のなにごともなしえぬ、ということが要点である、とわたしには思われるのであるが、 その「強度の流動」について述べるのはまた別の機会にすることにしよう。(**) わたしがここで確認しておきたいのは、アルトーが言うように、この「ほんとうの病気」は、時代の現象などではなく、存在の本質に属することではあるが、しかしそれがあからさまなものとして発見されたのはまさに現代においてであり、ニーチェやアルトーによって、はじめてはっきりとした姿で取り出されたものである、ということである。わたしは、この「神の無力」から「私と〈私〉の乖離」にいたる一連のプロセスを、「神の死」の意味として理解するのであるが、わたしは、この「神の死」こそが「現代」を刻印する標識である、と考えているのである。それはわれわれの時代の深い運命であり、われわれはみずからそれを引き受けることによってしか、その先へは行けないのである。
わたしは、この小論を、そうした引き受けの、美しいいとなみの一つを紹介することで終えることにしたい。それは次の歌である:
玲瓏(もゆら)とは玉と玉が触れ合って出る音のことである。虚空の〈穽(あな)〉に陥ちた魂、その動きのかすかな音に、耳を傾けてくれるひとがあるのである。
了
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このテクストは、はじめ1999年8月、
『瓜生通信』No.11
(京都造形芸術大学通信教育部発行)に
同じタイトルで発表されたものです。