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バンドリという蓑を作っている人がいる、ということを何人かの人から聞いた。江名子の方で作ってられる方がみえて、高山では有名な方だ、ということを義母からも聞いた。取材に高山を訪れた初日の二月十二日のこと、今度新しく高山にできる世界民俗文化センター開設準備事務所学芸員の南本さんから、そのバンドリを作る藤井さんという方が、今飛騨の里の方に来ていらっしゃると聞き、早速おうかがいすることにした。
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飛騨の里では、体験コーナーが設けられていて、バンドリや編笠やガンジキを身に付けてみられるようになっていた。そこでそれらを身に付けたりした。バンドリは写真で見るにもまして美しく、とても繊細で、その上たいへん丈夫な物にみえた。その丈夫さ、繊細さは、藁の太い部分を少しも使っていないことからきているように見えた。体験コーナーでは、ほかにクレ葺の材料や道具とかを見せてもらい、それから、藤井さんのいる旧若山家住宅に行った。そこで藤井さんは、制作実演をしておられた。
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藤井新吉さんは、明治四十二年の生まれで、今九十二歳だという。この年齢は数え年で数えたもので、満年齢でいうと九十歳である。数年前に亡くなったわたしの父と同じ年の生まれである。バンドリ制作技術の、ただひとりの継承者である。その技術を、新吉さんは、小学一年のとき、ご両親から習われたという。バンドリは、はじめ金森氏の統治していた時代に、岐阜の方から来た加藤源十郎という陶工が、江名子に住み、人々に伝えたものだという。この人はもとは京都の人だったという話もあるらしい。この繊細さは、京風のものか、とふと思った。
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江名子は山が近くて水温が低く、そのため反収が悪かった。人々はよく働いた。バンドリは冬場の副収入のためにとても有り難いものだったという。一年の農作業が、ダイコン・カブラで終わると、すぐにバンドリに取りかかり、高山で一月二十四日に開かれる二十四日市に出すために、夜学も休みにしてもらって、一家をあげて作っていたという。百枚も作った家もあったという。
しかし、昭和四十年代になるとバンドリも実用からはずれ、「すたれゆく産業」と呼ばれるようになっていった。そしてそういうものとして、映画に残してくれる人もあったという。新吉さんは、その後もずっと、恩のあるバンドリを生かそうと思って作りつづけていた。
しかしその後、逆にバンドリのおかげで、テレビの取材を受けたり、各地の飛騨展などにも使ってもらうようになった。今では、バンドリのおかげで人生を生かしてもらっているのだ、という。伝統を生かし、同時に伝統によって生かされている人生がここにある。
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