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熊狩りには人をとりこにするようなものがあるようである。宮川村塩屋の上野範三(のりぞう)さんは、昭和三年生まれであるから、もう三十年もむかしのことになるが、四十二才のとき、熊に顔と手を掻かれたことがある。そのときは、何と三十三針も縫ってもらい、そして結局命をとりとめた。奥さんの蓮江さんの話によれば、そのときは、もう助からないのではないかと思ったという。その後も傷あとの化膿がひかず、長いことバンバンにはれていた。そしてその傷は、結局、熊の胆に助けてもらった、という。熊に与えられた傷を、熊の力によって治してもらったわけである。蓮江さんは、そんなことがあってからは、範三さんももう熊狩りをやめてくれるのかと思っていたら、今度はかたきをとるのだ、といって、ますます熊狩りにのめり込んでいったと言っていた。ひとを魅するものが、熊狩りにはあるのである。
丹生川村折敷地出身の橋本繁蔵さんも、太ももを噛みつかれたことがあり、その傷は、中のほうがいつまでも膿んでいて、三年ぐらい治らなかった、と言っていた。しかし、橋本さんも、それで熊狩りをやめるようなことはしない。熊狩りにおいては、一瞬にせよ、自分が、熊の生とまっすぐに向き合う時が訪れうるのである。
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上野さんは、熊の毛皮を見せてくれた。それは息子の隆文さんが、鉄砲を始めて間もないころ、家の庭で仕留めたものである。十一月も半ばを過ぎたころのこと、そのとき隆文さんは風呂に入っていたが、窓から庭の柿の木を見上げると、闇夜に何か光るものが見えた。熊の目だ、と確信して、着るものもそこそこに銃を手にして庭に出て、一発撃った。その一発で熊は倒れ、樹から落ちてきた。
毛皮には、心臓あたりの背のところに、一発だけ銃痕があった。百三十キロほどの、大きな熊だったという。そして毛並みも、つやがあって、美しく、立派なものだった。腹部にも毛が生えそろっていた。なめしは高山に出したということであった。
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上野さんの狩りは、熊ばかりというわけではなく、むしろヤマドリやキジやウサギなどを狙うことの方が多い。上野さんによれば、このところ、猟期以外の有害駆除での熊猟は、原則的に毎年一頭と決められているという。高山にある県事務所(飛騨地域振興局)環境課に届いている数字では、平成十年度、宮川村では猟期、猟期外とも、熊の捕獲は一頭もない。ちなみに、銃による獣類の捕獲は、ウサギが一頭報告されているだけである。しかし同じ年度で、鳥類では、ヤマドリの四十一羽を筆頭に、キジバト、スズメ、マガモ、オナガガモ、キジなどが、猟期の間に、多分食用として、獲られている。上野さんは、ヤマドリは汁にして食べるが、一羽で二、三十人が楽しめる、といっていた。この宮川村では、狩猟の獲物は、近くの人たちが大勢で楽しむごちそうなのである。これもまた、縄文時代からつづく生活の楽しみであろう。
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