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古川町の伊藤弘次さんは現役バリバリの猟師というような方だ。一番の得意は柿の木に上るテンをとるククリワナだという。そう思って資料を見ていると、平成十年度のテンの罠猟では古川町の十七匹が突出しているが、その資料の背後に伊藤さんの活躍が見えてくるような気がする。ちなみに、テンの罠猟では、白川村の十一匹、宮村の七匹、上宝村の五匹などが続く。これらの数の中にも伊藤さんの活躍はあるのかもしれない。
伊藤さんはこのククリワナ猟の技術を四国の人から習ったというが、とりわけポイントとなるのはけもの道の見分け方だという。そして罠猟では、四国が一番の先進地だという。そう思ってみていると、例えば奈良県の天川村でも、太平洋戦争後に四国の人が来て、熊ハサミや首ククリワナを教えていった、ということが千葉徳爾さんの本に出ていた。戦後、四国の人が全国に出ていって、みずからも猟をしつつ、人々にククリワナを教えていった、という時期があったように思える。阿仁のマタギにしても、各地に出て、地元にいろいろな猟の技術を伝えていったようであるが、その中でも、オシ(圧シ)と呼ばれる罠猟(通り道の屋根が落ちて、圧死させる罠)が、伝授のかなめではなかったかと思われるところがあるのである。罠猟の技術の伝播というものこそ大いに探求する必要があるだろう。
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お話しを聞いていて、伊藤弘次さんは熊狩りも含めて、飛騨地方の狩猟全般に精通している方だという印象を強くした。六月四日にお話しを聞いた時、はじめに飛騨に出熊の巻狩りがあるかどうかをお聞きしたのだが、主として猟期の関係から、それはやられていない、ということであった。巻狩りというのもそう特殊な技術ではなく、熊の寝穴が分かっていても、雪が深くてたどり着けないような所では、足場が固まってからしか行きようがなく、また逆に、足場が固まってからならいくらでも獲れるのだが、猟期の関係で(二月十五日まで)出熊猟はできないのだ、ということであった。そして、熊は古川の山にはあまり寝ず、河合村、宮川村には熊の寝場が多くあるということであった。
そして熊穴の情報のことであるが、穴がどこかということは秘密に近いことであり、昔は、そのために、獲った熊を曳かないで、かついだこともあったのだという。熊を曳いてゆけば、曳き下ろす手伝いに来た人にも、熊穴の場所が知られてしまうからである。
また、熊穴がどこにあるかという知識とともに、今年は熊がどの穴で寝るかということを、習性などから判断して読む力も、その人の猟師としての力量を示すものである。そうした読みの点で飛騨一番の名人が高山市にいる、と伊藤さんは語っていた。
こうして、穴熊狩りをする時には、今、入っていけるどの山のどこの穴で熊が寝ているか、という知識・判断が、ほとんど猟の成果を決定してしまうものなのである。
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