飛騨に生きる人々と技(20)
白川村の巻狩り
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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白川村の巻狩り

 もと斐太中学校長であった川口孫次郎氏は、その著『飛騨の白川村』のなかで白川村の熊狩りについて記している。それを見ると、白川村にも「オセ」と呼ばれる罠猟や巻狩りがあったことが知られる。「オセ」とは、他の地方で「オシ」とも呼ばれる仕掛けで、熊が通り道を通ると、その上の重しを載せた吊り屋根が落ちてきて、圧死させる仕組みである。これは越中、越後、信州から奥羽にいたる地域に共通の罠猟であったが、今日では禁止されているものである。


 そして巻狩りであるが、白川村の巻狩りは単なる追い込みとは違って本格的なものである。中切地方と牛首地方にそれぞれ猟師がおり、それぞれ三方崩れ付近及び白山道の白樺帯のやや上部の北尾つづきの東側と、天生峠の北つづき人形山付近を独占的な狩場にしていたという。
 大正時代以前の熊狩りの記述だといわれる川口氏の報告をみて大変特徴的だと思えるのは、十人前後の編成となるこの巻狩りで、銃をもつのは射ち場に位置するひとりだけで、他の参加者はせいぜい槍をもつぐらいだということである。これは、巻狩りは本来「銃があってしかも射手が少ない時代のシステムだ」とする千葉徳爾氏の説を裏書きするであろう。


 谷ヨボリは全体の総指揮者であり、全体の見渡せる谷のわきに立って、みずから声を発して熊を驚かせるとともに、また熊の進行をたえず注視して、メンバーに指示をあたえるのである。阿仁のマタギでいうところの「シカリ」にあたる。
 カタにつく者も銃をもたないが、熊が近寄ってきた場合には、声を出すのではなく、木片で樹幹をこんこんと叩くのだという。この叩き加減がすこぶる重要であるという。カタは、「巻場」が広い場合には二番カタ、三番カタと増やすという。「カタ」が声を出して呼ぼらないのは、おそらく、熊の上方から声がすると、熊が、人がいるのを知って、下方に向きを変えてしまうからであろう。
 尾ヨボリは熊とほぼ同じ高度のところに立ち、声を発して熊を追い立てるのである。「巻場」が広い場合には、尾ヨボリと谷ヨボリの間のところに中ユリが入り、同じく声を発して熊を追い立てる。


 こうしてわれわれは白川地方には本格的な巻狩りが行われていたことを知るのであるが、そうなるとこの巻狩りという形式やその技術が、どこからどう伝わってきたものか、ということに興味がわく。おそらく白川地方にも、自然発生的な追い込み猟は昔から行われていたであろう。しかしそれが巻狩りという形で洗練され、組織されるためには、巻狩りの先進地方からの技術の伝授というものがあったのではないだろうか。実を言えば、ここにもまた、阿仁の旅マタギの姿がちらついているようにわたしにはみえるのである。

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