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六厩(むまい)に行った。大野郡荘川村の北西部、清見村に近いところだ。ここは本州で一番寒いところだ、という話も聞く。今年の四月はじめにも、一度、夜に寄ってみたことがある。夜の八時を過ぎていただろうか、深い雪の中に村中がひっそりと静まっていた。小学校の校庭のようなところにゆくと、そこにはひとの背ほどもある雪が、一面に積もっていた。二百五十年あまり前に書かれた『飛騨国中案内』にも、「高き土地ゆえ、毎年霜雪早く降り、耕作出来ず、麥(むぎ)なども作られず」と記されている。麦もできないほどの寒い土地だったのだ。標高も千メートルを越えている。もっとも、今日では稲も作られているが、当時の田はすべてが稗田であった。
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わたしの義父は、今は御母衣ダムのために水没した尾神村の出身で、その水没のために高山に出てきたひとだ。その口数の少ない義父の話に、六厩のことが出たことがあった。むかし戦後まもないころ、父親が、製品にした材木を高山まで馬車で運ぶのについて行ったが、その途中六厩で一泊、高山でもう一泊、そして帰りにも六厩で一泊したという。旅館があったわけではない。そんな人々が仕事で泊るための馬車宿が、六厩にはあったのである。むかしの奥飛騨の人々の生活のさまが、目に浮かぶようである。その、生活の姿がはっきりと見えた気がした。冬であれば馬橇(そり)に材木を積んで運ぶのであろうか。きびしい暮らしである。そうした人々にとっての六厩は、長い道中で、やっとその日の仕事を終えられる、安堵の場所であったことだろう。
また、その話の流れの中で、義父は、軽岡峠はほんとうにエラカッタ、と言っていた。尾神から高山への道順では、軽岡峠を越えて六厩に入るのである。もっともその軽岡峠は、六厩から三谷(さんたに)に下りるいわゆる新軽岡峠であり、六厩から直接に三尾河(みおごう)に抜ける旧軽岡峠とは別の道である。通れるものなら一度新旧の軽岡峠を通ってみたいと思っている。
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六厩の家はたいていが平屋で、軒が低い印象である。屋根の勾配もゆるやかである。戸数三十に満たないような小さな村だ。榑葺(くれぶき)の家がないものかと思って村を見まわしていた。村で最も大きな家のあたりを歩いていると、納屋で作業をしているひとがいた。この村に榑葺の家はないかとたずねると、数年前までは一軒あったのだが、家は壊れてしまい、そこの人も高山に出てしまった、ということだった。昔はこの辺の家はみな榑葺だったのだが、とも言っていた。榑葺とは要するに木の板で葺(ふ)いた屋根のことである。話を聞かせてくれたのは、岡田満次郎さんという方であった。そして、この六厩では、六尺の杉板を使い、それをいわゆるヨロイ(鎧)葺にするのだという。村のはずれに、そのための杉林があり、それを村人は共用していたということである。
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