飛騨に生きる人々と技(24)
六厩のこと
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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六厩のこと

 大野郡荘川村六厩(むまい)の岡田満次郎(まんじろう)さんの家は、六厩でも最も古く、最も大きな家に見える。平屋建ての、間口のとても広い家で、その左にさらに車庫兼作業場のような二階建の建物がつながっている。六厩の村の榑葺(くれぶき)の家のことを聞いたのは、岡田さんがその作業場で仕事をしている時だった。はじめは村の榑葺の家の話だけをうかがっていたのだが、寺の前にある、大きく、均整がとれて美しい建物が、岡田さんの家の倉で、それも以前は榑葺だったということを聞いて感慨深いものがあった。その二階建風の倉は、間口が六間、奥行が四間ということであった。屋根は三年ほど前に今の瓦に葺きかえたが、その前はセメント瓦で、そしてさらにその前が榑葺ということであった。


 そんな話を聞き、礼を言って立ち去りながら、作業場の隣の長い納屋のような所を通っていた。ついでに、その中を覗かせてもらった。中には、敷いた筵(むしろ)の上に大豆と栗が干してあった。しかしわたしが驚いたのはその次の瞬間だった。その筵の奥の方に、木の柱と横木で枠のようなものが作られていた。そして同じような枠が両隣に幾つか並んでいた。六厩という村の名はこの六つの厩からとられた名なのではないか、という思いが突然浮かんだ。引き返して岡田さんにたずねた。岡田さんは、そうだ、とは答えず、少し笑ったような表情で、厩を建て替えるとき、厩を一つ減らして五つにしようとしたが、大工がどうしても六つにしておけというので六つにしたのだ、と答えてくれた。六厩のひとは、みな村の名の由来を承知しており、この六つの厩をこの村の存在のよりどころと思っている、ということであろう。また、この厩は、もとは母屋から棟続きであったそうである。
 明治六(1873)年に富田礼彦によって書かれた『斐太後風土記』は、六厩の村の名の由来について、「一つの村に僅かに厩が六つしかないために六厩(むまや)といったのだろう」と語っている。「僅かに・・・六つしかない」という表現に、六厩の村に対するこの著者の見下したような見方が感じられるが、富田は六厩に行って人に話を聞いたりしていなかったのであろう。富田自身、享保年間(1716-35)に長谷川忠嵩(ただむね)が記した『飛州志』を批判して、書物にばかり依拠して書いていて誤りが多いと言っていたのであるが。


 明治四十二(1909)年六月三日、五箇山へ向かう旅の途上、柳田国男はこの六厩のあたりを通る。朝、高山を発ったのであろうが、六厩へ越える小さな峠で、山が全山、盛りの小梨の花で満ちているのに出会い、旅の楽しみを深くしている。そして六厩では、短い間に、このあたりには焼畑が多いことに気づき、また焼畑のことを薙(なぎ)と呼んでいることを聞き取っている。さすが、と思う。

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