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明治四十二(1909)年八月に柳田国男は「木曽より五箇山へ」という紀行文を発表している。それはその年の五月から六月にかけて旅のことを記したものである。その旅において柳田は、五月三十日に木曽の王滝村から鞍掛峠を越えて飛騨に入り、六月五日に白川村から庄川沿いに、境川を越えて越中に抜けている。途中高山に入るのは六月一日であった。そして六月二日は高山の町を見物し、熊胆を求めている。わたしは、柳田がこの熊胆を高山のどこで手に入れたのか、とても関心があるのだが、それについてはまた後日考えることにしよう。
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ところで、彼は六月三日に高山を発ち、荘川村に向かっている。まず郡上(ぐじょう)街道を三日町までゆき、そこから右に折れて牧ヶ洞(ほら)から小鳥(おどり)峠へ出る。柳田はこの峠の名を聞き忘れたのか、「牧ヶ洞の峠」と記している。そして峠を下りて夏厩(なつまい)の村に入り、時鳥(ほととぎす)がしきりに啼(な)いているのに注目し、また山の木がまだ都の四月ごろの若葉であることに注目している。上小鳥(かみおどり)では水力で板を挽く小さな小屋があるのを見つけ、また黄檗(きはだ)を煮る小屋があるのを見つけている。そして松ノ木峠を越えて(ここでも柳田は峠の名を聞きもらしている)六厩(むまい)に入る。前回にも記したが、ここで柳田は焼畑に気づき、それをこのあたりでは「薙(なぎ)」と呼ぶこと確認している。
彼が六厩に入ったのは午後四時より前のことである。『斐太後風土記』によれば、高山から六厩まで八里、換算してすでに三十キロメートルをこえている。彼は相当の早足で歩いていたようである。
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午後四時、軽岡峠にかかるところで彼は雷雨に遭(あ)う。そこで彼は頭の上に板を載せて雨をしのぐ人を見て、それを記している。明治四十四年に発行された岡本利平の『飛騨山川』によると、軽岡峠の頂には隧道(トンネル)が穿たれているという。今でもそこには木枠のトンネルがある、と六厩のひとから聞いた。延享三(1746)年の『飛騨国中案内』には軽岡峠のことは、ただ大峠で、「悪しき道なり」とだけ記されている。トンネルはいつ穿たれたものなのだろうか。柳田もトンネルのことは記さないが、彼の時には存在していたことであろう。
峠を下って、三尾河(みおごう)、一色、総則(そうのり)、猿丸、新淵(あらぶち)と進む。このあたりでは荘川も流れを大きくし、淵には鱒(マス)を捕る竹籠がしかけられているのを見る。そして道のそばに少しの田、少しの麻畠を認め、また麻は薙畑でも作っており、村の衣料はおおかたこの麻でまかなわれていることを知る。そして夜はそこの運送屋の奥座敷に泊っている。
柳田は、自分の紀行文がいつかその土地の人に認められ、郷土の一つの記録となることを願っていた。ここに略記したことだけでも飛騨にとって有益な観察が含まれている、と言えるのではないだろうか。
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