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明治六(1873)年に書かれた『斐太後風土記』は、六厩(むまい)に、高山から白川の関所、あるいは越前国への往還のための「駅舎」があった、と記している。それによれば高山から三里で牧ヶ洞、そこから二里で夏厩(なつまい)、そこから三里(別項では四里)で六厩、そしてそこから一里半で三尾河(みおごう)である。そしてさらに一里半で新淵である。これらの所に駅舎があった、と記されているのである。しかしこの記述にはわたしにはよくわからないところがある。そもそも「駅舎」とは何を意味しているのだろうか。そこには旅客の宿泊施設もあったと理解してよいのだろうか。それとも単に馬などを交換する施設ということなのだろうか。そのへんがよくわからないのである。また、里程も正確を欠き、距離が合わなくなる記述も時々見られるのである。
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岡村利平の『飛騨山川』(明治四十四年発行)には大変興味深い付録がついている。そこには各街道筋の旅舎名、その所在、宿料、そして高山から各地にいたる人力車、馬車賃金などがきちんと記録されているのである。それによれば、高山から白川村にいたる道順(郡上街道・白川街道)で「旅舎」があったのは、新淵までのところでは、清見村の三日町、荘川村の小鳥(おどり)、六厩、黒谷だけであった。このとき牧ヶ洞、夏厩、三尾河には旅舎はないのである。新淵には旅舎があった。六厩と新淵の旅舎名と宿料を挙げると、六厩のものは寺脇喜十郎で三十五銭、新淵のは山下甚助で同じく三十五銭であった。「旅舎」は、宿料を取るからには、当然、宿泊施設である。
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明治四十二年六月にこの道を旅した柳田国男は、高山を出たときから新淵に泊る予定にしていたのだろうか。六厩を午後四時前に通って、軽岡峠を越えて三尾河を過ぎ、黒谷まで約二里、普通に歩けばすでに午後六時を過ぎている。日の長いころとはいえ、もう宿をとってよい時刻である。黒谷に泊まらなかったということは、柳田は、徒歩ではなく、車を使っていたということを意味しているのかもしれない。柳田は下呂から小坂までは人力車を雇っており、小坂から高山までもたぶん人力車を使っている。明治四十四年当時、小坂から高山までは、六里三十四町、九十五銭が人力車の規定賃金であった。
また、当時の車賃は、県道一里につき十四銭、里道は一里につき十五銭、一日雇いきり金が一円、夜間は十二時まで二割り増し、以後五割り増しで、泥道は昼で二割り増し、夜で三割り増しと定められていた。しかしこれは警察署の定めた賃金で、実際には天候等によって多少の増額が見込まれていた。これによって柳田国男の高山から新淵までの車代を推測すると、約十一里で、坂道や雷雨などの増額を入れて百八十銭ぐらいになるであろう。相当な額であるが、それによってこの十一里の長途を一日でこなしえたとすれば、十分に納得のゆく額と言えるだろう。小島烏水(うすい)が『飛騨山川』の序で言うように、飛騨国は、「案外に道路の手入れがよく行き届いて」いたのである。
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