飛騨に生きる人々と技(27)
新淵と高山
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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新淵と高山へ

 明治四十二(1909)年六月三日に、柳田国男は高山を発って荘川村の新淵(あらぶち)に至っている。これは旅程十一里に及び、一日で旅をするには相当な困難をともなう距離である。柳田はどうやってその旅をこなしたのだろうか。そんなことに疑問をもったのであった。そしてまた、柳田は新淵では「運送店の奥座敷に寝た」と記しているのだが、この運送店とはどこのことなのだろうか。そんなことにも疑問をもったのであった。何かヒントはないか、と思って、荘川村の新淵に行った。
 はじめに「荘川の里」に行った。そこには代々名主をしていたという山下家の旧家が移築されていた。その家で、座敷は、四つ間取りというのだろうか、田の字型にふすまで仕切られた四部屋があり、左奥の、玄関から一番遠いところが奥座敷になっていた。当時法制局の役人であった柳田は、こうした地方の旧家の座敷に泊めてもらう、ということもあったであろうと推測されるが、山下家の現在の当主である山下俊造(しゅんぞう)さんのところには、今はもうそうした宿帳のようなものは残っていないということであった。また、山下家が当時運送店をしていた、ということも聞いていないということであった。


 新淵では何人かのひとに尋ねた。みなとても親切に答えてくれたが、はっきりしたことはなかなか分からなかった。新淵でもっとも古いという喜和屋旅館でも、昔のことは分からなかったが、地元の長老である大沢喜二丸(おおざわきじまる)さんを紹介してくれた。  喜二丸さんは、大正六(1917)年の生まれだという。奥さんの志寿(しず)さんとともに、昔の荘川のことをたくさん聞かせてくれた。喜二丸さんのお父さんは馬車曳きをやっていて、喜二丸さんも、父親が病気のときなど、時々は代わりをしたことがある、ということだった。新淵から高山までは、峠を三つも越えねばならず、たいていは往復四日の行程であったという。しかしそれはもちろん、荷を積んでのことである。空荷であれば、あるいはひと一人を乗せたぐらいであれば、一日で行けないこともない、ということであった。
 そしてまた驚くべき話を聞いた。奥さんのお母さんが、大正元年か二年かに、子を負(お)ねて、山王祭(春の高山祭)を見に、歩いて高山へ行った、というのである。それは志寿さんが生まれるよりも前のことである。四月十二日ころのことのことであろう。峠にはまだ雪道が固く、馬の背のように続いている時である。一足ずつ足の置き場を見つけて進んでゆくしかない道である。しかしともかく無事に三つの峠を越え、一日で高山まで歩いていったのである。大変なことである。
 高山には、新淵出身の坂下こうじろうさんが、百姓のための木綿の服を商う店をやっており、新淵の人はみなそこを頼りにして行った。そうやって、新淵ではたいていのひとが、一度は山王祭にでかけたのだという。山王祭の華やぎがさぞ目に沁みたことであろう。

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