飛騨に生きる人々と技(28)
白川街道の榑葺屋根と萱葺屋根
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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白川街道の榑葺屋根と萱葺屋根

 今からおよそ二百五十年前の延享元(1746)年、高山陣屋の地役人であった上村義満は、公務のかたわら、みずから踏査し、見聞したことなどをまとめ、『飛騨国中案内』三巻とした。この書は、今日、当時の飛騨の様子を知るためのかけがえのない本となっているが、その第三巻には飛騨国三郡の郷村の家数を集計したものが記されている。そしてそこには村ごとの屋根の葺き方についても記されているのである。それによると、たとえば白川街道の三日町、牧ヶ洞、夏厩(なつまや)、上小鳥などの村は、それぞれ「残らず榑(くれ)葺の家に作るなり」と記されている。他方、六厩(むまい)、三尾河(みおごう)、黒谷、一色、新淵などの村は「残らず萱(かや)葺の家に作るなり」と記されている。この「残らず」という言い方には、たとえば六厩の岡田満次郎さんのお宅が、榑葺で、しかも三百年ほど前から続く家屋であると聞いていることからすれば、必ずしも疑問がないわけではないが、この記述からは、白川街道の村々の家の屋根が、六厩か、もしくは三尾河から、榑葺から萱葺へとすっかり変ってゆく様子がうかがえるのである。


 荘川村新淵にある「荘川の里」には、五軒の旧家が移築されている。今の姿で、萱葺のもの三軒、瓦葺のもの二軒である。その瓦葺二軒の一つ、旧三島家住宅は、はじめ宝暦十三(1763)年に、一色村で、寄棟式入母屋合掌造りの萱葺き住宅として建てられたが、明治十一年に榑葺切妻屋根に改造され、さらに瓦葺きに改められたものであるという。
 もう一軒の瓦葺家である旧山下家住宅は、新淵の名主の家として、明治初年に榑葺の切妻住宅として建てられたものである。この建物は、明治、大正期を通じて榑葺であった。新淵には今も、この家が元の場所に榑葺で建っていた時のさまを覚えているひとが少なくない。明治四十二年にこの村を通った柳田国男も、あるいは夜であったかもしれないが、この榑葺の山下家を目にしたはずである。そしてその後この建物は瓦葺に改められ、昭和四十九年に「荘川の里」に移築された。


 この十一月十九日に、わたしは国道一八五号線を高山から新淵へ走ったが、途中、小鳥峠を下った伊西で、空き地に、刈った萱をひとかかえずつ束ね、その数束を互いによせかけて立たせ、乾燥させている風景を見た。手押し車いっぱいに萱をのせて運んでくるおばあさんを見かけ、尋ねた。これらの萱は、今飛騨の里で葺き替え中の屋根に使うものだ、と教えてくれた。同じような萱干しの風景を新淵でも見かけた。こうして萱をひとかかえずつの数束で立てて乾燥させる、というやりかたは飛騨地方に広く見られるもののようである。萱は、伊西ではもう雪囲いには使わないものらしい。数年前、山形県の最上郡大蔵村の柳淵(やなぎぶち)で、萱刈りの話を聞いたことがあった。その家では、まだ雪囲いに萱を使っていた。新淵でももう萱葺の家はないのだろうか。「荘川の里」の外ではもう一軒も目に入らなかった。

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