飛騨に生きる人々と技(31)
秋の高山祭のこと
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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秋の高山祭のこと

 十月九日、高山祭を見た。秋の高山祭は桜山八幡宮の祭であり、安川通りの北側の下町の人々の祭である。高山へはもう二十年以上、年に何回か行っているのだが、高山祭を見るのはこれが初めてのことであった。交通がとても混雑するということを聞いていて、どうしても二の足を踏んでいたのだった。しかし初めて見る高山祭は、聞いていた以上にすばらしいものだった。
 九日は時々小雨の降る天気だった。屋台は漆塗りのせいか、とても雨に弱いものらしい。町の人々が、その屋台をとても大事にしているのがよく分かる。午前十時ごろから、下町各所の屋台蔵を周ってみたが、その時はどの屋台も蔵から出てはいなかった。からくり人形の技を見せてくれる布袋台(ほていだい)も、まだ蔵に収まっていたが、屋台の前には文政十二年制作の唐子(からこ)人形を出していて、訪れた人々に、一緒に記念写真を撮る機会を与えてくれていた。曳き手の人々は雲の動きを見て、午後のからくり奉納はできるのではないか、と話していた。しかしそれからも何度か小雨が降った。


 十二時半ごろに再び八幡宮の境内に行った。神楽台と布袋台は境内に揃っていた。参道にも数台の屋台がやって来きていて、曳き揃えを始めていた。やがて神社の方から、神楽の音楽とともに、神幸祭の行列が出てきて、お旅所の方へ向かった。やがて、定刻の一時半ころから、境内いっぱいの観客の中、布袋台のからくり奉納が始まった。男女二体の唐子人形が、五本のブランコを、前転して足を掛けたり、エビ反りになったりしながら次々に飛び移り、それから布袋の背や肩に乗り移るのである。そして最後は布袋さんともども、和光同塵のノボリを立てて挨拶をする。人形は一本の遠目には見えない糸をたどって動いているのではない。人形はそれぞれが、ブランコや布袋さんから完全に独立した一個の存在なのである。それがブランコを移ってゆく、という離れ技。どれだけ複雑な仕組みがあるのだろうか。まったく見事なものであった。
 小雨の止まない天候のため、夜の宵祭りは残念ながら行われなかった。それで屋台の「曳き別れ」を見ることはできなかった。しかし人々は、宮川沿いに並ぶ夜店をのぞきながら、夜遅くまで、別れがたい時を過ごしているように見えた。


 九日のこと、午後のからくり奉納を見た後、わたしは神幸祭の列を追って久美愛病院の方まで行った。屋台の引き回しが見られるかと期待していたのだが、それは取りやめとなっていた。しかし、その途中、ある通りで、軒(のき)屋根を榑で葺いた家を見つけた。それはくさび形の厚い五枚重ねの板の上に、九枚重ねに榑板を載せた、とても重厚な印象の屋根であった。高山市内に、一部にせよ榑葺屋根を持つ家が残っていることに、わたしは少しうれしくなった。以前は、高山の家がすべて榑葺だったはずなのである。

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