飛騨に生きる人々と技(32)
高山祭から清見村へ
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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高山祭から清見村へ

 十月十日は、前日と打って変わって秋晴れの一日だった。桜山八幡宮の表参道には八基の屋台が出揃い、華やかさを競っていた。高山祭の屋台は、京都の祇園祭りの山鉾と比べると、大きさは一回り小さいが、造りのていねいで繊細な美しさではいくらも勝っているように思えた。京都の祇園祭りは、一般の京都のイメージとは異なり、勇壮、豪快な面を多分にもっているが、その山鉾も邪霊をはらい除けようとする力強さを十分に備えているようにみえる。他方、高山祭の屋台は、木部のほとんどすべてに黒や朱の漆塗りが施され、むしろ屋内でしずかに鑑賞すべき工芸品のような趣があるのである。こんなに大きく、華やかで繊細な美品が屋外に並んでいる、ということだけで、この日が、まったく特別な、晴れの一日であることを語っているようにみえるのである。
 また、京都の山鉾は、毎年祭の前に一から組み立て直されるのであるが、高山祭の屋台は、飾りだけ外して、そのまま一年間、屋台蔵の中で保存されるのである。


 そうして昼過ぎまで屋台を見物していたが、この日は早めに高山を去ることにした。帰りは三日町からせせらぎ街道を通って郡上へ抜けることにした。榑葺の建物がないかと探しながらの帰途である。この道は昔の郡上街道であるが、途中の福寄、三ッ谷、坂下などの村にも榑葺の家はもう残っていなかった。しかし麦島、楢谷などを通って大原(おっぱら)の村(大野郡清見村内)に入ると、街道沿いの家々の屋根には、昔は榑葺であったのだろうと思えるようなものが目につくようになった。車をとめて、トラクターで耕運をしているひとに話しかけたた。そこから百メートルほど離れたところに、榑葺のようにみえる小屋が目に入った。そのひとは、耕運作業をやめて近づいてきてくれた。昔はここらあたりの家はどこも榑葺だったが、今はもう一軒もない、ということだった。しかしあの小屋は今でも榑葺で、写真を撮ってもかまわない、ということだった。そしてまた、榑葺の家を探しているのなら、二本木には一軒、今でもあるはずだ。自分もその家の屋根葺を手伝ったことがあり、そこの家では榑葺をとても自慢にしていた、というようなはなしをしてくれた。今度は二本木を訪ねてみよう、と言って、わたしは小屋の方に行った。
 近づくと、その納屋のような小屋は榑葺であった。屋根はかなり老化しているように見えたが、榑葺で、その上に横木を渡し、石を載せていた。それは抜け落ちを防ぐためのもので、榑葺屋根にはよく用いられているものである。
 家に人にお話しをうかがおうとしたが、家は留守であった。しかし見ると、その家でも、軒屋根は榑で葺いたものであった。高山の桜山八幡宮の近くでみつけた家とよく似た印象であった。ここのものは一センチほどの厚板を六重に敷いた上に三枚ほど薄い榑板をのせたものであった。榑葺には、何か、機能だけではない意味があるようである。

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