飛騨に生きる人々と技(33)
初雪の翌日、二本木へ
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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初雪の翌日、二本木へ

 大野郡清見村二本木の肥垣津(こいがやつ)光雄さんのお宅を訪ねたのは、十一月十九日のことだった。十月に飛騨を訪れたときに、清見村大原(おっぱら)で聞いた榑葺の家を見せてもらおうと思ってのことである。
 わたしは前日十八日の夜に飛騨に入ったのだが、郡上の方から、国道四七二号線を北上して坂本トンネルを抜けると、案の定、雪が舞っていた。この時は夕方から寒波が近づくと言われていたのだが、わたしは、タイヤを取り替える時間もなくて、普通のタイヤで来ていたのだった。もっとも、予想外の事態に備えて、タイヤチェーンだけは車に載せて来ていたのだったが。
 トンネルを抜けた清見村でも、路面にまだ雪は積もっていなかった。日中はある程度日も差していて、地面がまだ多少とも暖かだったためであろう。用心をしながら、チェーンを着けずに走っていた。夜の八時半ごろ、西ウレ峠に差しかかると、その辺りは、路面に二、三センチ雪が積もっていた。一車線分はだいたい解けていたが、そうでないところもあった。この雪で飛騨のクマたちも、少しあわてて冬支度を始めるのだろう、と思いながら高山へ向かった。


 高山では義父のところに泊めてもらった。義父は、明日、荘川の方まで行けるかどうかは、今夜の降りしだいだ、と言っていた。しかしその夜はそれほど大きな降りにはならなかった。
 翌朝は予定通り、国道一五八号線を西に向かった。義父は、こんな日が一番事故を起こしやすいから気いつけよ、と言って送り出してくれた。小鳥(おどり)峠にはわずかに前夜の雪のなごりがあった。その峠の所の感じがなにかしら気になって、車を停めて外に出た。一躯の石像が立っていた。草鞋を履き、数珠と錫杖を手にしていた。銘を見ると、昭和十四年に牧ヶ洞の人が建てた、実在の上人の像のようである。地図から読む限り、小鳥峠は、ずっと昔からこの場所を通っていたとみえる。往時、ここは冬季はひとつの難所であったはずだ。
 そして小鳥峠には大きくはないが湿原が広がっている。そこには水芭蕉も自生している。湿原を少し歩いてみると、湿った草ぐさの葉が細やかに陽の光を映し、それはとても爽やかな散歩道であった。この植物群落は、今は村の天然記念物に指定されている。


 夏厩(なつまい)の交差点を右に折れ、二本木に向かう。左手上方にはしばらく高速道路の工事現場が見える。五分も走らぬうちに、もう集落の北端の方に来た。車から下りると、右手に大きな榑葺の屋根が見えた。これがあの噂に聞く榑葺の家なのだ、と思って近づいてゆく。しかし、その建物からは表札が外されていた。隣の大きな新しい家の方に行くと、果たしてそこには肥垣津光雄さんの表札があった。やはりあれが探していた榑葺の家だったのだ、と思う。わたしは来意を告げた。

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