飛騨に生きる人々と技(34)
二本木の肥垣津光雄さん
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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二本木の肥垣津光雄さん

 十一月十九日、大野郡清見村二本木に肥垣津(こいがやつ)光雄さんを訪ねた。わたしが初めて、保存された文化財ではない形で目にした榑(クレ)葺の家屋の持ち主である。その榑葺の家のとなりの家屋に光雄さんの表札を見つけ、お訪ねしたのである。声をかけると光雄さんが出てこられた。光雄さんの容貌には、どこかわたしの高山の義父に似たところがあった。今七十五才だということである。光雄さんからいろいろとお話しを聞くことができた。
 光雄さん一家は、三年前まではその榑葺の家に住んでいたそうである。しかし雨もりのために新居を作り、引っ越したのである。雨もりがしだしたとき、何枚かの榑を差替えたが、それでは雨もりが止まらなかったのである。そして屋根全体を葺き替えるには、材料も用意できず、それであきらめたようである。そして隣に引っ越して、ひと冬、雪下ろしをしなかったら、北側の屋根の、軒(のき)のところが、タタミ一畳分ほど落ちてしまったのである。二本木の村には、お訪ねした十一月にはやさしい日差しが満ち、穏やかな田園風景が広がっていた。しかしここも冬には雪が積もり、その積雪の重みは、家屋の維持のためにも油断ができないほどのものなのである。


 光雄さんが榑葺の家を建てたのは昭和五十年ぐらいのことだった。今から二十五年ほど前のことである。榑の善いのを人からいただく機会があり、それで屋根を榑葺にしようとしたのである。クリとネズの榑板であった。ひとを十五人雇って、屋根を葺いた。五十年前には、屋根の葺き替えは、「ユイ」と呼ぶ村中総出の協同作業でやっていた。しかしそのユイの習慣も、二十五年前には、こと屋根の榑ふきに関してはなくなっていたのである。私が今まで見聞した限りでは、この光雄さんの家が、榑葺住宅の新築としては飛騨地方で最後のものである。屋根を榑で葺きたいという思いには、光雄さんのこの二本木の村の昔ながらの生活への特別の思いが込められていたのであろう。その思いが、この生きた最後の榑葺住宅を支えてきたのである。


 今、二本木の近くに「ふるさと林道」が造られている。そこの道の駅のようなところで、いま自分が保管している昔の鏡板の戸を、喫茶店などで利用してもらえたら、と光雄さんは語っていた。また、昔の百姓の道具も、自分の榑葺の家の中で、捨てずに保管してあるのだという。そうした光雄さんの保有している道具などを保管し、人々が見学や調査を行なうことのできる施設ができれば、それは二本木の伝えられた生活を知るためにかけがえのないものになり、それはまた飛騨地方の村々の生活のスタイルや道具の細かな違いや、制作技術の発生源や伝播の道などをつきとめるために、大いに役立つものとなるであろう。祖先から伝えられて自分たちが生きてこれたことへの大きな感謝と愛が、光雄さんの生き方からは伝わってくるのである。

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