飛騨に生きる人々と技(48)
牧戸の寺田正子さんを訪ねる
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


前頁


牧戸の寺田正子さんを訪ねる

 二月の始め、牧戸の寺田正子さんのところを訪ねた。牧戸は大野郡荘川村にあり、そこで高山方面から白川村へゆく道(国道一五八号線)と、郡上・白鳥方面から白川村へゆく道(国道一五六号線)とがT字形に交わっている。牧戸はひとつの交通の要衝をなしているのである。
 その牧戸に、昔は運送屋があった。それは「丸通」と呼ばれていて、荘川村の人に昔からある運送屋はどこだろうかと尋ねると、みながその丸通を挙げた。丸通とは日本通運の愛称であるが、わたしの中学のころの印象では、国内の荷物運送は、国有鉄道を中心に営まれていて、丸通はその運送を一手に引き受けている業者だった。郵便で送れない大きな荷物は、荷札を付けて鉄道で送るものであった。
 去年(二〇〇〇年)の十二月に、荘川村新淵の大沢喜二丸(きじまる)さんから、牧戸で寺田一三(かずみ)さんという方が運送屋と旅館をやっていたということを聞いた。その運送屋が牧戸の「丸通」である。しかし一三さんは既に亡くなっており、そのお兄さんの安一(やすかず)さんも一昨年に亡くなったということであった。しかし安一さんの奥さんの正子さんは、今もお元気で、牧戸の駅で売店と切符切りをしている、ということを聞いた。そこでその時、いきなりではあったが、牧戸の寺田さんのお宅を訪ねたのだった。そしてそこで正子さんにお会いすることができた。しかし正子さんはその時はとてもお忙しい時であって、あまりお話しもきけなかった。しかし昔は運送屋と宿屋をやっていて、二階の奥の庭に面した部屋からは、月がよく見えた、ということをお聞きしたのであった。もちろん、今のお宅はその当時の家ではない。そこで当時の家の間取りを書いてほしいとお願いをしたのであった。
 その時わたしが考えていたのは、明治四十二年六月三日に、柳田国男が飛騨を旅してこの荘川村のあたりに泊ったとき、その宿はあるいはこの寺田さんの所ではなかっただろうか、ということであった。その時のことを柳田は「夜、月色に背き、運送店の奥座敷に寝たり」と記しているのである。その時柳田が泊った場所がわかったとしても、それ自体はそう大きな意味のあることではないだろう。しかしそれを追究すれば、今は忘れられている大事なことが見えてくるかも知れないと、それに少しの期待をもっているのである。

次頁
go 飛騨学事始 飛騨に生きる人々と技Index go homepage head


mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp

(C) masatsune nakaji, kyoto. since 2000