飛騨に生きる人々と技(49)
荘川村役場を訪ねて
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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荘川村役場を訪ねて

 二月のはじめに荘川村牧戸の寺田正子さんに話をうかがいに行ったとき、わたしはその前に村役場を訪ねた。明治四十二年六月三、四日に柳田国男が荘川村に入ったとき、彼はそこで見聞したことを「木曽より五箇山へ」という紀行文の中で記しているが、その中に確かめたいことがあったのである。その一つは柳田が「また黄蘗(きはだ)を煮る小屋あり」と記していることについてである。これは上小鳥(かみおどり)から六厩(むまい)にかけての松ノ木峠あたりの話のようなのだが、わざわざ小屋で黄蘗を煮るのは、「百草」や「陀羅尼助」のような薬を作るためなのだろうか。製薬であるなら、そうしてできる薬は商品とするものなのか、それとも身近な人々の間で消費するためなのか。また今でもそうやって黄蘗を煮ている人はいるのか、と、そんなことを知りたかったのである。役場に務める寺田正子さんの息子さんが答えてくれた。答えは、黄蘗を薬に使うことは今でもあるが、それを煮ている人があるとは聞かない、ということであった。あるいは明治時代にはそうして自家用中心の小規模な製薬業を営んでいる人があったのかもしれない。あるいは、その黄蘗の煮出しは製薬用ではなく、むしろ衣服を染める染料をとるためにおこなわれていたのかもしれない。黄蘗からは、「おこん」(=鬱金)と呼ばれる黄色系の染料がとれるのである。そしてこの染料は、「黄飯」(おうはん)と呼ばれる儀礼食のご飯を作るために京都でも用いられているものである
 もう一つ調べたかったのは、柳田が軽岡峠を越えてから「小倉の洋服を着たる若き男、ふらふらと来る。同行者曰く、あれは荘川村の助役なり。今日の村会にて辞職を可決せられて帰るところなり。酔っているなりという」と記していることの裏付けが取れるだろうか、ということであった。この方は、村の資料で、ちょうどその日に退任した助役があったことが調べられた。それによって、柳田の記述の信憑性が高まるとともに、彼の旅に(多分高山から)同行した者が、荘川村の事情に大変よく通じているということが分かったのである。そして、そうするとその同行者というのは、あるいは『荘川村史』に、高山方面の荷馬車運送には高山のその人が忘れられない人であった、と特記される坂下勝次郎氏その人ではなかったかとも思えてくるのである。
 そんな知識を得て、牧戸の駅舎に、寺田正子さんを訪ねたのであった。

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