飛騨に生きる人々と技(50)
満月の庭
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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満月の庭

 はじめに少し訂正をしておきたい。前々回の号で、荘川村牧戸の寺田安一(やすかず)さんは寺田一三(かずみ)さんの「兄」であると記したが、これはわたしの思い違いで、本当は「長男」であった。おわびして訂正しておく。この間違えは、この五月二十七日に、寺田正子さんに家系図を見せてもらってわかったことであった。正子さんは、安一さんの奥さんであり、今も牧戸駅で元気に働いておられる方である。
 今年の二月に、寺田正子さんに話をうかがいに行ったのは、明治四十二年六月三日に荘川村に入った柳田国男が泊った「運送店の奥座敷」とは寺田さんのところなのではないか、と考えてのことであった。丸通をしていた寺田一三さんは、明治三十八年の生まれで、柳田が荘川村に来た時にはまだ四歳ほどであり、柳田を泊めたということがあったとすれば、それはその前の代の安之助さんの時代のことであっただろう。安之助は、口にハの字の髭をたくわえ、白い馬に乗っていたという。安之助は製糸工場をやっていたが、その他に運送業を営んでいたかどうかは分からない。運送業ということではっきりと分かるのは、昭和八年に国鉄(バス)が開通し、牧戸駅ができたときから、一三さんが丸通をはじめたということである。それ以前からも運送業を営む店が新淵、牧戸のあたりにあっただろうことは想像がつくが、それが寺田さんのところであったかどうかははっきり分からないのである。
 しかし旅館の方は、安之助の奥さんがやっていたそうである。そして一三さんの奥さんのこのさんも旅館業を引き継いでやっていたという。
 その建物は昭和四十一年まで牧戸の交差点のところにあった。立派な庭があり、京都から大学の先生が学生を連れて庭の見学に来たこともあったという。庭は道路拡張のため改築の際に造り変えたが、二本の松は当時からのものだという。建物の二階には欄干があり、庭を見下ろしつつ山から昇ってくる月を見るのはとても美しい光景だったという。柳田が荘川に泊った六月三日は、ちょうど満月であった。「夜、月色に背き・・・」と記すのは、それがとても印象的な月夜だったためであろう。寺田安之助が運送店をやっていたならば、柳田はそこに泊っただろうとほぼ間違いなく推定できるのであるが、今の段階ではまだ未決としなければならない*。

*注
『北国紀行』(昭和二十三年刊)のなかで柳田国男は、明治四十二年の旅行をふり返り、「五時半に荘川村新淵に着く、それより半里下流、牧戸の寺田安之助という家に行きて一宿す。夜この村の村長若山君、村書記前田君来たりていろいろの話をしてくれる」と記している。これで柳田が泊った家が寺田安之助家であることは明らかになる。さらにその上に、安之助が当時(明治42年)にも「運送店」をやっていたことがわかってくる。
(2007年11月17日 注記)

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