飛騨に生きる人々と技(51)
御母衣ダムのころ
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
御母衣ダムのころ
荘川村牧戸の寺田正子さんが寺田家に嫁いできたのは、荘川村の新淵で、助教の二年を含めて六年、清見村の福寄で一年、小学校の教師を勤めた後のことであった。それは昭和二十二年(一九四七)四月のことである。その時寺田家は一三(かずみ)さんが当主で、寺田家では丸通は続けていたが、旅館の方はすでにやめていたという。ご主人の安一(やすかず)さんもはじめ新淵で教師をしており、同僚であったが、戦時中のこと、教師を辞めて一年間北支の万里の長城の方へ兵隊に行っていた、ということである。
また正子さん自身も、荘川村に縁のある方であった。高山市上枝の正子さんの祖父、吉本寅衛門さんが馬好きで、今の荘川の里のところで開かれていた馬市によく出かけていたのである。そして縁あって荘川村の柳場の人を嫁にもらった。しかし子ができず、さらに息子さんも柳場から養子にもらったのだという。正子さんはその息子さんの子なのである。そして当時中野にあった御坊様(照蓮寺)にも、御開帳のときなどよく連れていってもらったそうである。
正子さんが寺田家に嫁いで数年経った頃、御母衣ダムの建設告示が出され、電源開発株式会社が現地に「御母衣ダム調査所」を設置し大規模な調査が開始される。御母衣ダムがコンクリートダムからロックフィルダムに計画変更されるのもこの調査によって、予定地の地下が深いところまで岩屑状になっていることが判明したためである。この「調査所」の事務所が置かれたのが、寺田さんの家の離れであった。そして事務所の人々は、寺田さんの所の二階の四部屋を使って寝泊まりしていた。それはダム工事が始まる前の三、四年のことである。ダムは昭和三十年五月二十一日に通産省から施工が発表され、翌年から本格工事が始まり、昭和三十五年十月に完成する。
わたしはそのころ神奈川県の小学校の生徒であったが、完成したばかりの御母衣ダムの写った絵葉書を持っていた。それは多分父からもらったものであった。絵葉書には東洋一のロックフィルダムと書かれていた気がする。そのころはわたしもまた、日本の科学技術の水準の高さや、国が発展してゆく雰囲気に、ある種の憧れを懐いていた気がするのである。
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