飛騨に生きる人々と技(52)
牧戸駅
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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牧戸駅

 大野郡荘川村牧戸の寺田正子さんは今、JRの牧戸駅で仕事をしている。この仕事を始めたのは昭和三十七年(一九六二)十一月からである。御母衣ダムが完成して二年経ったところである。仕事は、今は切符の販売と売店の仕事だけになっているが、国鉄時代には荷物もあったのである。牧戸駅はバスの駅ではあるが、まさに国鉄の駅としての役割をもっていたのである。
 この駅の仕事は、以前は国鉄から交通公社に委託されたものであったが、JRになってからは村に委託された。正子さんはそれぞれの時代にそれぞれから委嘱されて勤めてきたのである。そしてこのJRのバス路線も、来年四月以降は廃止される予定であるという。老人や子供など、自家用車を使用できない人々にとってはバスがなくなることは、そのまま交通の足がなくなることになってしまう。たとえば荘川村の高校生は、今は高山まで、あるいは郡上八幡まで、バスで通学しているのである。
 そもそも荘白川地方に自動車道路ができたのは、庄川が水力発電資源として注目され、大正十四年以降、庄川下流に水力発電所が建設されはじめることと深く関係している。荘白川地方は林業を主要な産業としており、伐採した材木は庄川によって越中へ川下げしていたのである。ダムができれば、この川下げが不可能になってしまうのである。この問題は「庄川流木事件」と呼ばれるが、昭和五年に岐阜県と電力会社の間で調停が成立する。電力会社が岐阜県に四年間で百二十万円を寄附し、それを元に岐阜県が荘川村・白川村を通る自動車道路をつくることになる。荘白川の材木は岐阜方面にトラックで陸送されることになるのである。そうして「百万円道路」と呼ばれる道路が建設され、昭和七年秋に白鳥・牧戸間三十二キロが完成する。その後戦争をはさんで、昭和二十三年五月には牧戸・鳩ヶ谷(白川村)間が開通する。はじめて白川村まで車でゆけるようになるのである。そしてさらに昭和二十八年八月には、鳩ヶ谷・成出(富山県東砺波郡上平村)間十九キロの開削が完了し、金白線と呼ばれる金沢・白鳥間の自動車道が開通するのである。  国鉄牧戸駅が開かれるのは昭和八年八月一日のことである。牧戸で寺田正子さんの義父の一三さんが丸通を始めるのは、この時からである。

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