飛騨に生きる人々と技(53)
軽岡峠へ
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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 『荘川村史』によれば、荘川村の六厩(むまい)と三谷(さんだに)の間に新軽岡峠ができるのも、御母衣ダムの工事と関係している。御母衣ダムの建設中に白鳥−牧戸間の道路が故障し、そのためダムの巨大な建設資材を、国鉄高山線を経由し、高山から牧戸へ抜けるルートで輸送する必要が生じた。その時、荘川村は、新谷泰助氏の所有していた六厩−三谷−三尾河間の林道十二キロの寄附を受け、電源開発会社と国庫の補助を受けてそれを改修する。その道は昭和三十四年七月に完成する。それが新軽岡峠である。
 この峠道の完成により旧軽岡峠は廃道となり、また、この新軽岡峠を通る牧戸から松ノ木峠までの道が国道一五八号線に編入される。新軽岡峠を通るルートは、旧軽岡峠の路よりも一・五キロほど長くなるのであるが、新道の方はトラックの通れる道幅が確保できたのであろう。旧軽岡峠も馬車は通れたのであるが、それは明治三十六年に大規模な改修工事を行ったことによるのであった。
 今年の六月三日、旧軽岡峠が今どうなっているのか知りたくて、また明治四十二年に柳田国男が通った道がどのような景色であるのか知りたくて、わたしもまた、わたしの大学の学生を連れて、この峠に六厩から車で入っていった。柳田もまた六月三日にこの峠道を越えているのである。
 今高速道路ができているところのそばを通って、道はずっと続いていた。その道は放棄され、荒れ果てた道ではなく、実際に今でも使われている道であった。残念ながら、峠の鞍部まで高さで二十メートルほどのところで、倒木が道を塞いでおり、その先に行くことは諦めなければならなかった。もう少し時間に余裕があれば、車を停めて歩いて行くのであったが、結局木枠のトンネルがあるという鞍部にまで行くことはできなかった。しかし途中までにせよ通ってみると、この道を大型トラックが通るのは無理であったろうということはよく理解できた。
 荘川村新淵の大沢喜二丸さんは、新軽岡峠を木炭(*石炭を訂正)バスが走っているときの話をしてくれた。峠では乗客は皆バスを降りて、後ろから押していたのだという。そして運転手は、送風ハンドルを回し、火を熾(おこ)したりすることもあったのだという。これもまた昭和三十四年以降の風景なのだろうか。また確認してみたいと思う。

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