飛騨に生きる人々と技(54)
黄蘗のこと
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


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黄蘗のこと

 今年の五月二十七日、大野郡荘川村新淵の大沢喜二丸さんのところを訪ねた。その日は白川村に泊ることにしていたので、お話しを聞けたのは三十分ほどのことであったが、その短い間にも貴重な話をたくさんうかがうことができた。はじめは奥さんの志寿さんから昭和三十年代のこのあたりの交通のことを聞いていたのだが、すぐに畑から喜二丸さんを探してきてくれて、お二人から話を聞くことができた。はじめに坂下勝次郎さんの話をおききしたのだが、志寿さんが高山の病院に入るときお世話になったということであった。荘川と高山を結ぶ人としてとても大事な方であったということである。しかし坂下さんの話はまた別の機会に委ねたい。
 このとき喜二丸さんに、わたしは、明治の末のころには松の木峠のあたりに黄蘗(きはだ)を煮詰める小屋があったというが、荘川村でもそういうことをしていた人があったのか、とたずねた。喜二丸さんの話では、上明方へ抜ける街道の寺河戸の奥で製材所をやっていた小原安五郎さんが、黄蘗もやっていて、黄蘗をドロドロになるまで煮詰めて、それを四角いコモに包んで名古屋、大阪方面に送っていたということであった。それは、「ダラニスケ」という近畿地方でよく見かける腹薬の原料になっていたそうである。黄蘗を煮るのは、自家用ではなく、むしろ商用であったのである。自家用には、皮をむいて、干しただけのものを使っていたのであった。そしてこのように黄蘗を家庭薬として使う習慣は今でも続いているのである。
 明治四十二年に柳田国男が松の木峠の辺りで見た黄蘗を煮る小屋も、おそらくは同じく薬の原料を造っていたものであり、そして同じく、「百草」のではなく、「ダラニスケ」の材料になっていたと推測される。木祖村など、木曽の御岳周辺で造られる「百草」の原料の黄蘗は、木曽地方で十分に得られたであろうと推測されるのである。
 喜二丸さんはまた、荘川村らしい黄蘗の利用法も教えてくれた。馬が腹痛をおこしたときに、黄蘗を煎じたものを馬に飲ませるのである。しかしそれはとても苦いものなので馬も嫌がり、それでビール瓶でむりやり飲ませていたそうである。人と馬との親密な関係のうかがわれる話である。

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