詩集『わがひとに與ふる哀歌』において、あるいはもっと広げて、伊東静雄の詩作全体の中で、「わがひと」という措辞がどういう〈効果〉をもっているか、という問題について考えようとするとき、先ずなされるべき考察は、その措辞と、「ひと」「人」という措辞との対比であろう。「わがひと」という措辞は、彼の詩の中で何回現れているのであろうか? 考察を『哀歌』に限るならば、その中に「わがひと」は、それに類似した表現(「わが〜ひと」)を含めるて、三回現れている。これに対し、「ひと」あるいは「(〜)人」という措辞の方は、九回である。それらの表現のすべてを、次に挙げてみよう。
この中から、「恋人」という定形的な二字熟語で現れている例(ウ、ケ)を除いて、「ひと」あるいは「人」が、一語で名詞となっているケースを見てみると、われわれは、そこに〈性〉による書き分けらしきものを認めうる。つまり、「人」と漢字で表記されている場合(ア、イ、エ)には、男性的な〈ひと〉が想定され、「ひと」と仮名書きされている場合(オ、カ、キ、ク、コ、サ、シ)には、女性的な〈ひと〉が、想定されているのではないか、と考えられるのである。実際、このような書き分けは、詩人が自ずから行っているはずの書き分けに属するものであろうし、また、事実そうであるならば、この仮説は、われわれの詩の読解を幾らかなりとも助けるものになるであろう。始めに、平仮名の「ひと」の幾例かを検討してみたい。
詩集第十番の「冷たい場所で」は、「ひと」を二回含むが、その全体は次の通りである。
この「ひと」が女性的な〈ひと〉である、として、詩の読解を試みてみよう。その「ひと」は「私につらい」。〈私〉が〈彼女〉を愛さなかったならば、〈彼女〉の〈私〉に対する様々な態度は、〈私〉に「つらい」思いをさせるものにはならなかったであろう。〈彼女〉の一種の〈無関心〉は、〈私〉が〈彼女〉を愛するがゆえに、〈私〉にとって、「つらい」ものになるのである。今、〈私〉は、〈彼女〉に、一つの「幸福」を教えようとする。その幸福は「未知の野の彼方」においてだけ、味わいうるものであり、それは「太陽が」直接に与えてくれる幸福なのである。人々には知られていない〈あそこ〉、野の彼方の〈地〉にて、初めて味わいうる、その幸福を、〈私〉は、その幸福を知っている者として(「太陽が幸福にする」という直接的な措辞。例えば、「するであらう」というような推測的な措辞は、ここでは用いられていない。)、〈彼女〉に教えようとする。そして、この〈教えること〉は、〈彼女〉を、その〈地〉に連れて行くことによって、初めて、成し遂げられることなのである。そして、その「幸福」は、太陽が直接に与えてくれる幸福であり、太陽と直接の関係をもつことによって、味わわれる幸福であるゆえに、特別の幸福であり、激しい幸福である、と〈私〉には評価されている。このような〈幸福〉を〈彼女〉に教えるためには、まず、その〈地〉に行くことが、幸福を味わうことになるのだ、ということを、〈彼女〉に「信じさせ」なければならない。それは、〈平穏な幸福〉というようなものとは違う幸福であろうが、しかし、それもまさしく幸福であり、しかもより素晴らしい幸福なのだ、ということをである。実際、太陽によって幸福にされる幸福以上の幸福はありえないであろう、という前提で、詩の言葉は語られているのである。
つぎの行の、「そして」という措辞は、〈〈彼女〉が、その、「彼方の幸福」を信じてくれて〉、という意味である。つまり、「そして」の「そ」は、「〈彼女〉がそれを信じる」ということを意味しているのであり、〈彼女〉がそれを「信じてくれる」ならば、〈私〉にとっては、「真白い花」が咲くことになるのである(1)。そしてそれは、〈私〉に、「憩ひ」を与えてくれることになる。結局、〈私〉が〈彼女〉に願っているのは、一、〈彼方の地の幸福を信じ〉、二、それによって〈私に、真白い花の安らぎを与えてくれる〉ことである。そしてこの詩は、ここまでの所、〈彼女〉に対する〈私〉の願いの告白であり、〈彼女〉への訴えの表白である、と解釈することができる。
次の、「昔のひとの」から始まる四行は、その〈彼方の地〉の〈来歴〉を語りつつ、その〈地〉の実際の〈厳しさ〉を、包み隠さずに、述べ、語っている。〈来歴〉とは、その〈地〉が、「昔のひとの堪え難く/望郷の歌であゆみすぎた」「場所」である、ということであり、〈厳しさ〉とは、そこが、「荒々しい冷たい[…]岩石の/場所」である、ということである。そして、この四行の読解のためにこそ、本来の〈解釈の技術〉が、われわれに要求されているように見える。
われわれは、この四行を読み解くためにも、平仮名の「ひと」は女性的な〈ひと〉のことである、というわれわれの仮説を役立てねばならない。そしてわれわれは、それ以外の読解は困難であろう、と主張するのである(2)。この場合、まず、解釈の問題として、この「昔のひと」と、二行目の「私につらいひと」とが同一か否かという問題が生じる。自然な解釈のラインを辿るなら、「私につらいひと」は、今、まさに「つらい」のであるから、〈今のひと〉であるが、他方、「昔のひと」は、〈昔の〉〈ひと〉と呼ばれ、また、この場所を「あゆみすぎた」〈ひと〉とされているのだから、まさに〈昔のひと〉であり、両者は別人である、としなければならない。その場合、「昔のひと」とは、昔の〈私〉の恋人であり、かつて〈私〉が、この〈地〉に招き、その招待に応じてくれた〈ひと〉であることになる。しかし、その〈昔の恋人〉は、この、〈荒々しい冷たい岩石の〉〈地〉に「堪え難く」、そこを「望郷の歌」を唇に、歩み去った、という経緯があるのである。この〈地〉は、〈故郷〉から、最も懸け離れた場所、言わば〈極北の地〉なのである。〈昔の恋人〉は、この「冷たい場所」を離れ、〈故郷へ〉と帰って行ったのである。そして今〈私〉は、過去の痛い思い出のあるこの〈冷たい場所〉に、今また、その〈新しい恋人〉を誘うことを願い、そのための祈りを尽くすのである。
今や、結局のところ、「未知の[…]彼方」の「冷たい場所」とは、〈私〉自身の隠喩に他ならないことが分かる。〈私〉には〈太陽の幸福〉がある。しかし、〈彼女〉の目には、まだ〈野〉しか映っていない。「野」とは彼女の〈視野〉のことなのだ。彼女の視野の彼方の、太陽の幸福が恵まれる、この、私の場所を、彼女が信じてくれるように。昔の恋人のように、この場所を、望郷の歌とともに立ち去るのではなく、この、冷たい場所に、直接に降りそそぐ太陽の光を、ともに噛み締めてくれることを。------解釈の自然なラインに従って読み進めるならば、詩の大意は、以上のようなことになるであろう。
しかし、ここで尚も問題が残るとすれば、それは、第四行の「信ぜしめよ」という措辞の問題であろう。これは、〈(彼女が・〜を)・信じるように・させよ〉と分節しうるであろう。ここで残る問題は、この〈させる(しむ)〉という使役表現の、〈能動者〉が誰か?という問題である。というのも、まさにこの〈能動者〉に対して、〈詩〉は、訴えかけていることになるのだから。〈彼女〉が、〈彼方の地の太陽の幸福〉を、未知ながらも、信じるようになるとすれば、それは一体、〈誰〉の、〈何〉の、力によってであろうか? ここで詩人が、援助を頼み、引き合いにだし、その加護を祈っているのは、一体、〈誰〉なのか? 〈何〉なのか? ------この問いに対する答えとして、われわれは、ともかくも先ずは、それは〈それを為しうる者〉である、と言っておくことができる。それは、その〈者〉に語りかけ、訴えかけることによって、〈運命の変更〉が生じうると、期待しうるような〈者〉、でなければならないであろう(「私につらいひと」なのだから)。言葉による訴えの〈まこと〉によって、運命にある変更を、〈出来事〉を、生じさせる力。それは、結局、広く、〈言霊〉と呼ばれ、人々に恃まれてきた霊威である、と言うべきではないであろうか(3)? ------〈言霊の霊威〉なくしては、この詩の〈訴えかけ〉は、単に空虚なものにしか、なりえないであろう(4)。〈言霊の幸い〉を信じないならば、そもそも、詩において訴えることに、何の意味があるであろうか?
そして、この問題は、決しておろそかにはなしえない問題なのである。なぜなら、この詩の構文的諸関係を信じることが正当であるかぎり、つまりこの詩の語りの構造の一貫性を信じうるかぎり、この詩は、「信ぜしめよ」という訴えを〈行為している〉詩であり、詩中の他の詩行の全ては、この〈訴えの行為〉を、補足し、明確化するために存在している詩行だからである。この詩のすべての重みは、「信ぜしめよ」という〈訴え〉、〈呪い〉に懸かっているのである。しかしまた、この詩の語り構造の一貫性を信じないでする読み取りの可能性が開かれてくるのも、この、〈誰への訴えか?〉という問いを巡ってなのである。つまり、〈言霊の幸い〉を信じることなしに書き連ねられた訴えの言葉だとしたら、この訴えは、一体誰によって受け取られるべき訴えとなるのであろうか?言うまでもなく、それは「ひと」(〈彼女〉)に対して語りかけ、訴えかけられている言葉ではない。〈訴えかけられている者〉は、「私」と「ひと」に対して、第三者の位置に立たされている。可能な一つの解釈は、ここに〈私の分身〉を導入することであろう。つまり、この〈私の分身〉が、〈私〉の訴えを〈救い取る〉という仕方で登場し、それによって〈私〉の「分離」が、「分散」が、生じるのだ、という解釈が、一つ可能な解釈としてここに呼び寄せられるであろう(5)。その場合、〈私の分身〉は、「ひと」つまり〈彼女〉に対して、〈彼方の地の幸福〉を信じさせることはできないにしても、〈私〉の願いと訴えに関しては、それをその〈強度〉において抱き取り、救い取り、その訴えが、虚空に吐き出される呪いとなることを、抑制することができるであろう。〈私の分身〉が〈私〉を抱きとめることになるのである。
ところで、詩行のここにおいて、〈言霊の幸い〉への疑念が絡み付いているとすれば、その場合には、詩の中に、アスペクトのある微妙な断層が生み出されている可能性が生じて来るのである。具体的に言えば、詩の後半の四行を、〈言霊への疑念〉の、あるいは〈言霊への絶望〉のアスペクトから、読み解く可能性が、生じるのである(6)。後半四行に、ある〈醒めた調子〉を読み取る解釈が正しいならば、この〈醒めた調子〉は、訴えることの無益さに、〈訴えのまこと〉が(何者かに)聞き取られ、思いもかけなかった出来事が生じる、というようなことへの絶望感に、------そういうことは起こるはずがない、とする絶望感に、------帰せしめることができるであろう。いずれにせよ、詩の後半の四行は、「真白い花が私の憩ひに咲く」ことの困難さを、「昔のひと」のケースを引き合いにして、語っているのである。「場所にこそ」の「こそ」は、「咲く」ことの困難さを、詠嘆している。従って、〈彼女〉が、〈彼方の地の幸福〉を信じてくれるようになることの、有り難さを。------しかしながら、この詩は、この冷たい場所に、真白い花が咲くことは、絶対にあり得ないのだ、と断言しているものでもない。〈不可能性の断言〉であるならば、願い・訴え・祈ることそのものが、全く空しいことになってしまうであろう。そうであるならば、前半の六行と後半の四行とが、相矛盾することになってしまうであろう。そうであるならば、むしろ、前半部と後半部の間の、統辞関係、構文上の連続性が、断ち切られていて然るべきであろう。------結局、訴えが実現される見込みのゼロを断言するようなことをすれば、抒情詩は死んでしまうことになるであろう。
ここにおいてわれわれは、詩集『哀歌』の、顕著な特徴をなしていると思われる一つの基本的な性格に出会ったと考えることができる。それは、対立関係にある二つのアスペクトの、緊張した共存なのである。一方で、〈言霊(の幸い)への信頼〉の中で、祈りがなされ、訴えがなされている。〈言霊への信頼〉のアスペクト、と呼ばれるべきものに基づく〈語りの編成〉が、一方では存在しているのである。しかし他方では、同じ詩の中に、それとぴたりと背中合わせに、〈言霊(の幸い)への疑念〉と呼ぶべき見方がつきまとっており、それが〈訴え〉そのものを、一種寒々としたものにさせ、寒々とした風景の中に立たせているのである。つまり、〈訴え〉のさなかにおいて、既に絶望が予見され、あらかじめ断念と諦めがなされており、更に、奇妙な覚醒感によって、絶望する自分が慰められてさえいるのである(7)。要するに、〈言霊への疑念〉のアスペクトと呼ぶべきこの〈諦める者〉の見方によって、〈不可能性の相から〉、〈訴え〉の語りそのものが解読される仕組みが、一篇の詩の中に、〈訴え〉そのもののすぐ後に、提供されているのである(8)。二つの物の見方が、決して一方だけを切り離すことはできない仕方で、詩の中に造形されているのである。この性格は、『哀歌』という詩集の、特質をなす性格ではないであろうか?
ところで、われわれのこの見解が正しいとすれば、それは、伊東静雄の詩の内に、「自照的性格」ばかりを読み取る解釈に、はっきりと修正を要求することになるであろう。伊東静雄の、特に『哀歌』の内に、「私」と「私の半身」との対話、自分で自分に訴えかけ、自分で自分を慰める、というような、自意識の、一種自閉的なモノ・ディアローグを読み取る解釈が、確かに存在している。しかしそのような側面は、われわれが先に指摘したように、一方の側面にだけ、〈諦め〉の、〈疑念〉のアスペクトから生じる諸関係にだけ着目する解釈なのだ。いわば影だけに、光から生じた影だけに着目する解釈なのだ。しかし、抒情詩において、影だけに着目することは、常に間違いである。なぜなら、たとえ〈dx〉ほどであるにしても、光の方が影よりも常に大きく、この〈差〉の〈dx〉だけが、歌うことを、詩作することを、なさしめる力になるものだからである。その間の経緯は、伊東静雄においても変わらない。われわれが検討している「冷たい場所で」においても、〈信頼と希望〉は〈疑念と諦め〉よりも〈dx〉分だけ大きく、「信ぜしめよ」という訴えは、〈私の分身〉に対してではなく、先ず、初めには、〈言霊〉に対して、なされているのである。この第一の契機が存在しないならば、第二の、〈疑い〉の契機も(そしてそれに続く、〈私の分身〉による、〈私〉の抱きとめ、といった契機も)、存在しえないのである。人々は、「哀歌」の中の、「わがひと」という措辞を、余りにも簡単に考えてきた。人々は、詩と詩集の題名に騙されてきたのだ。詩を、「わがひとに與ふる哀歌」と名付けることには、幾莫かの傲慢さが、厚顔さが、有るであろう。しかしこの厚顔な面相の仮面の下には、またはっきりと含羞の表情も認められるのである。この詩集を捧げるべきただ一人の「ひと」がいるとすれば、そのことを詩集の題名の内に表白することは、まさに今生一期の〈思い〉の証しなのである。------それを厚顔な言い方、と誤解するのは、ただ誤った解釈者の方だけなのだ。注意されるべきことは、「哀歌」の詩行の中においては、「あゝ わがひと」という言い方でしか、「わがひと」という言葉は用いられていない、ということなのだ。この、呼びかけでもあり、訴えでもあり、詠嘆でもある、この言い方でだけ。それは決して、「ひと」、を、我有化している、占有している、ということではないのである。われわれは、この行為の意味、この呼びかけの意味を、次に、「ひと」という措辞と対比しながら、探って見なければならない。
〈私〉と〈ひと〉との〈距離〉が、「ひと」という措辞を用いる場合と、「わがひと」という措辞を用いる場合とでは、どれだけ、そしてどのように異なっているのか、ということを、われわれは、詩行に沿って確定して見るように努めなければならない。伊東静雄は、リルケに触れたある書簡の中で、ある種の思考は、詩でしか、正確には表現されないのだ、ということを語っている(『全集』書簡150)。〈私〉と〈彼女〉との間の、〈私〉の方からの〈距離〉というものも、この、「詩でしか表現されないもの」の一つであろう。詩行で、「ひと」と呼ばれる場合と、「わがひと」と呼ばれる場合とでは、確かにその〈ひと〉の〈私からの距離〉が、異なっているのである。
例えば、このように問うてみることができる。「ひと」という措辞しか用いられていない詩「冷たい場所で」においては、〈私〉の願いが叶えられる見込みが、そもそも存在しているのであろうか?と。つまり、「ひと」は「冷たい場所」に、将来にせよ、「真白い花」を咲かせてくれる見込みがあるのであろうか? と。この詩においては、「ひと」という措辞によって、未だ〈わがひと〉にはならない距離が(そして恐らくは、今後とも決して〈わがひと〉にはならないであろう距離が)、その〈ひと〉との間に保たれているように見えるのである。この詩の〈ひと〉が、いまだ一度も〈わがひと〉になったことがないのは、確実に見える。その手付かずの距離、未だゼロになったことのない距離、が、詩の「真白い花」のイメージと対応する。そして、〈私〉が「ひと」を「愛する」のも、未だ、〈私〉の方に、そう呼びうるような〈わがひと〉のいない所、場所、状況、においてである。先に見たように、この詩が、直接〈彼女〉に語りかける構文を取っていないこと、直接の〈彼女〉への訴えではない、ということが重要である。第三者、〈言霊〉であれ、その他の何者であれ、この詩が、第三者に対して訴えかけている、ということが重要である。この詩において、「ひと」は、二人称の位置に置かれてはいない。むしろ、その〈第三者〉こそが第二人称の位置に置かれているのである。そして、この人称の空間において、「ひと」は、第三人称の位置にとどめ置かれているのである。そして実際、詩「冷たい場所で」において願われている「咲くこと」とは、「ひと」が「わがひと」に成るということ、「わがひと」と呼ばれうる、特別の場所が、充実されること、として表現することができるのではないであろうか?従って、恐らくは、「わがひと」という表現をもたないこの詩は、それゆえにこそ、詩「わがひとに與ふる哀歌」以上に〈冷たい〉場所を、示していることになるのではないであろうか。つまり、直接、「ひと」あるいは「わがひと」に対して訴えるのではなく、〈第三者〉に対して訴えかける、という構文をもつこの詩は、もはや〈ひと〉を、〈語り〉の第二人称、語りかける相手の位置に、置きえないほどに成った〈関係の段差〉を、つまり〈私からの遠さ〉を、示しているのではないであろうか。「ひと」と「わがひと」の、措辞の研究は、われわれに、『コギト』昭和九年十二月号発表のこの詩を、同誌同年十一月号発表の、「わがひとに與ふる哀歌」の〈次の位置〉に置いて考察することを促す。先ずはこの問題を追究するために、次に、その、「哀歌」の全体を、引用して考察を進めることにしたい。
詩「哀歌」の全文は次の通りである。
直ちに気付かれるように、この詩においては、一人称複数が、〈私たち〉が、語りの基調となっている。そして、「わがひと」は、〈私たち〉の内のひとり、〈私〉の相手、として想定されているかに見える。そして、その資格において、「わがひと」は、「無縁のひと」と対立する。しかし、ここで一層注目しておくべきことは、「あゝ わがひと」の一行の後には、「私たち」という表現が、一度も登場しない、ということであろう。それはなぜか? そしてそれは「あゝ わがひと」という措辞のデリケートな〈効果〉と、どう係わっているのであろうか? われわれは、こうした問題について、考察を進めて行かねばならない。
ところで、その考察に先立って、われわれはこの詩を、〈述語動詞〉に従って、五つの詩節に区分しておきたい。第一節(一)は、「歩いて行つた」を述語動詞とする初めの四行である。第二節(二)は、「信ずる」までの五から七行。第三節(三)は、「聴く」を述語動詞とする、「無縁の」から「讃歌を」までの六行。第四節(四)は、「あゝ わひと」から「何にならう」までの五行。そして、最後の第五節(五)は、「如かない」を述語動詞とする末尾の三行である。
詩「冷たい場所で」(以下、場合により「場所で」と略記)の方から見るとき、「哀歌」は、「あゝ わがひと」という措辞を持ち得る〈近さ〉にある点で、より〈手前の〉所に位置しているように見える。多分、「わがひと」という措辞だけならば、それはまた別の〈効果〉をももちうるであろう。しかし、「あゝ わがひと」という措辞になると、それは、その〈ひと〉に対する呼びかけを含んでいる、と見なければならないのである。この時、〈ひと〉は、第二人称の位置に立つ。われわれは、この詩の第四節、五節を、先ずは、この〈わがひと〉に対する、〈私の思想〉の語りかけ、と解釈することができる(「何にならう」、「如かない」という二つの措辞は、〈私〉の〈思想〉の表明と解釈されねばならない)。われわれは、この〈思想〉と〈わがひと〉との関係、その〈距離〉、を考察しなければならない。
〈私の思想〉を表明するこれらの詩節(四、五)の中には、人間の身体行動について語っている一行がある。それは、「如かない 人気ない山に上り」の行であるが、ここで直ちに、この「山に上る」のは誰か? という問いが生じる。それは人間一般がであろうか? これを、人間一般の然るべき義務の明言、と考えることができるであろうか? ------そういうことではありえないであろう。なぜなら、〈人間一般〉の中には、この詩で言われる「無縁のひと」(三)が含まれているはずであるが、この詩の文脈においては、この「無縁のひと」は「私たち」と対立させられており、〈私の思想〉の表明においてまさに問題になっているのは、この「私たち」が、〈どうすることが〉、「無縁のひと」の〈思想〉に勝って、〈優れた〉ことであるのか?という問に答えることだからである。ここ(第五節)で言われているのが、この脈絡からして、〈無縁のひとの思想〉と対立する、〈私たちの行動の原理〉である以上、「山に上る」のは、先ずは「私たち」である、と考えなければならない。
しかし、われわれには、考察のこの地点において、ここに既に大変デリケートな問題が、絡まってきているように見える。それは、この四節、五節が〈私の思想〉の表明であるとして、この〈思想〉に対して、「わがひと」は、どのような態度を取るのか?という問題が生じている、ということである。明らかにこの〈思想〉は〈私の思想〉であって、〈私たちの思想〉ではない。〈私たち〉は、「鳥々」と「草木」のする「無辺な広大の讃歌」を「聴く」。そこまでは〈私たち〉のすること、として語られている。しかし次の、「人気ない山に上」る、という行動、及び、「太陽をして…湖の一面に遍照さす」という行為を、〈私たち〉がしている、とは書かれていないのである。そして、そればかりでなく、その〈私の思想〉に、「わがひと」が、賛同するのか否か、ということも、記されてはいないのである。「わがひと」が、この〈思想〉に賛同してくれることが、そして「山に上り」「太陽を遍照させる」行為を、この〈太陽の秘儀〉を、共に行ってくれることが、明らかに願われてはいる(9)。しかし、また「わがひと」には、〈選択による意志決定の自由〉が、与えられているのである。そしてこのことによって、この詩にはある種の〈開口性〉が、〈開かれている性格〉が、形成されているのである。「わがひと」の行為に関する〈未記入〉(〈賛同〉するか否か、〈共に山に上る〉か否かが、決定されていないこと)は、まさにそのことを意味しているのである。われわれは、ここにこの詩の〈開口性〉を読み取らなければならない。この詩における〈開口性〉とは、つまり、この詩が、詩の外部に、外部の〈わがひと〉の方に、外部の〈わがひと〉の意志決定に、------まさにそのようなものに対して、開かれたものになっている、ということである。詩「冷たい場所で」においては、詩は、外部に対して開かれているにしても、それは、〈ある、自由意志をもった人間〉に対してではなかった。それはむしろ、〈言霊〉と呼ぶべき、詩の守護神に対して開かれた詩であった。そして、この、詩の守護神に対して訴えかけることは、詩の本来的な営為に属することであるだろう。しかし他方で、この「哀歌」においては、詩は、まさに、詩の外部の、詩神ならぬ人間に対して、開かれている、と見るべきなのだ。われわれには、この、人間〈わがひと〉に対する開口性こそが、詩「哀歌」における「わがひと」という措辞の、大変特殊な性格を、形成しているものに見えるのである(10)。
「あゝ わがひと」という一行は、このように、詩の〈外部のひと〉へとつながる通路として、詩の中で屹立しているのである。そして、後に見るように、この一行の〈効果〉は、実に大きいのである。
このように「あゝ わがひと」の措辞が、外部の〈ひと〉への訴えかけとして読み取られうるならば、われわれは、そのような場合に「わがひと」という措辞がもつことになる固有な〈効果〉について、考察してみなければならない。その場合には、この言葉は、外部の〈ひと〉、一女性、に対する、特別な、直接の呼びかけ、直接の訴えかけ、の言葉になるのである。つまり、その場合には、その女性に対して〈わがひと〉になってくれ、という訴えかけを、直接に行っていることになるのである。〈わがひと〉、つまり、〈私〉にとっての特定のただひとりの〈ひと〉であるとともに、当人にとっても〈私〉との係わりが自分に要となる唯一の関係であるような、〈ひと〉。相互に、ただひとりの〈恋人〉である関係の内にある〈ひと〉に(11)。そういう〈ひと〉になってくれ、という呼びかけを、ここで行っていることになるのである。それはあくまで〈呼びかけ〉であり、決して〈我有化〉を行っているということではない。それは決して、勝手に〈我がものにしている〉というようなことではなく、自意識の中で独善的に彼女を占有して見せているわけでもない。事情は全く逆であり、〈占有〉されていないからこそ、〈呼びかけ〉がなされるのであり、〈自意識における独白〉のようなものでないからこそ、実際の〈訴えかけ〉なのである(12)。実際の、直接の訴えであること、〈わがひと〉になってくれ、という、〈ある女性〉に宛た直接の訴えかけであるということ、このことが、この「あゝ わがひと」という措辞の、非常に特殊な秘密なのである。それゆえ、結局、「あゝ わがひと」と呼びかけて、------振り向いてくれるなら、〈彼女〉が、気付かぬ振りをするのではなく、振り向いてくれるなら(その女性が酒井ゆり子であるとすれば、その場合、彼女は気付かぬ振りをしたように見えるが: 書簡九六、九七参照)、------〈私〉の秘密の願いのすべては成就したことになるであろう。なぜなら、その場合には、振り向くことは〈了解〉を意味するであろうからである。
結局、このような〈外部〉との関係においては、「わがひと」という呼びかけの言葉は、先ず何よりも、ある〈ひと〉を、〈わがひと〉にしたい、という欲望の表明になっているのである。「あゝ わがひと」と呼びかけるこの行為によって、その〈ひと〉を〈わがひと〉にしたいという欲望が、初めて現実に〈行為される〉のである。そしてここで実際に〈行為され〉ているのである。このような、〈わがひと〉にしたいという欲望と、〈わがひと〉になってほしいという願望の、表白において、この「あゝ わがひと」という措辞は、詩を溢れ、詩集を溢れて、詩集の外の、彼女のほうへ、例えば〈ゆり子〉の方へ、こぼれ出て、現実の〈行為〉に成っているのである。
しかしこれもまた、「あゝ わがひと」という措辞の、一つの〈効果〉であるに過ぎないであろう。もう一つ別の〈効果〉は、この詩の内部で、詩の詩行の進みに沿った仕方で生じる効果である。詩行の進みに沿って考察する場合、「あゝ わがひと」というこの措辞は、「私たち」という措辞を破壊させているのである。そして、ここでも「わがひと」という措辞は、〈我有化〉という事とは全く異なった効果をもっているのである。むしろ「私たち」という表現の方が、〈我有化〉を行っていることになるであろう。というのも、〈私たち〉という表現は、〈私〉とある人(々)との、立場上の、暗黙に〈類同化〉された関係を表現しており、その表現の使用の内には、ある人に〈私〉とは異なった〈立場〉を許容する余地が存在しないからである。(一)「私たちは歩いて行つた」、(二)「私たちの内の誘わるる清らかさ」、(三)「いま私たちは聴く」という詩節の進みの中で、第四節に「あゝ わがひと」という措辞が出現するとき、その出現が全く唐突であるとは感じられないとすれば、それは、この「わがひと」が、〈私たち〉の内の、〈私〉とは別のもう一人のことであると、〈私〉と「かたく手をくみあはせ」ていた〈ひとり〉であると、自ずから受け取られているからである。しかし、この場合にも、〈ひと〉は、〈私たち〉を構成する〈立場〉の同一性から、既に解放されているのである。〈私たち〉から抜け出てゆく〈わがひと〉。「わがひと」という措辞は、まさしく、〈私たち〉の一人ではない、ということを意味しているであろう。〈ひと〉は、〈私たちの内のひとり〉から、〈わがひと〉へと立場を変えて行く。そして、われわれが先に分析したように、第四節以降、〈わがひと〉に〈自由選択を行う意志〉が認められていると、解読しうるとすれば、それは、先ずは、この、〈ひと〉の、〈私たち〉からの脱出・独立によって、一つの、新しい言表空間が、開かれているからなのである。われわれは、このことの意味を正確に考えて見なければならない。
第四節で「何にならう」と問いをかけられているのは、まさしく〈わがひと〉である。先にも見たように、ここでは同意が求められている、と考えるべきである。そして、ここで同意されるべきだとされていることは、「輝くこの日光の中に忍びこんでゐる/音なき空虚を/歴然と見分くる目の発明」の無用性である。しかし、この辺の詩行は、少しく凝縮されている。ゆっくりと内容を辿ってゆくことにしよう。
先ず、二つのタームが注目される。〈空虚〉と、〈目の発明〉である。ここで空虚が注目されるのは、先に第三節で、〈私たち〉は、鳥々の鳴き声や、草木のする囁きを、「無辺な広大の讃歌」として「聴いて」いたはずだからである。それらを共に聴いた〈ひと〉に対して、「空虚を歴然と見分ける」ことの無用性を、訴えることに、何の用があろうか? と思われるからである。それは、「私たちが…私たちの意志の姿勢で…讃歌を聴いた」のである限り、〈私たち〉の共通の確認事項であったはずである。それとも、「音なき空虚を歴然と見分ける目」というものの中には、〈無縁のひとの思想〉よりも先へ進んだ、何らかの観点が、存在しているのであろうか?実際、ここには何らかの、より進んだ観点が存在している、とする解読だけが、〈私〉と〈わがひと〉の、〈私たち〉からの独立を、説明しうるであろう。われわれはそのような読解を試みることにしよう。------〈無縁のひとの思想〉とは、「鳥々は恒に変らず鳴き/草木の囁きは時をわかたず」とする思想であった。要するに、それは、特別な〈讃歌〉の存在を否定し、自然の内に見聞きされるものは、〈繰り返されること〉(=一種の〈空虚〉)に過ぎない、とする思想である。この無縁のひとの思想を退ける同意において、〈私たち〉は、讃歌を聴きうる〈耳〉は、(私たちが?)意志の姿勢をもつことを、条件にして、初めて与えられるものだ、ということを学んでいるはずである。つまり〈自然の讃歌〉は、存在しているのであるが、無縁のひとたちは、それを聴くための条件をなす、〈意志の姿勢〉を持たないゆえに、それを〈聴き取る耳〉が得られないでいるのだ、ということをである。従って、ここでは〈無縁のひとの思想〉は、一種の〈粗野な人間の思想〉として、〈聴く耳を持ち得ない人間の思想〉として、〈私たちふたり〉によって、退けられているはずである。
第四節の詩行の中に、第三節の〈粗野な人間の思想〉よりも進んだ観点が存在しているとすれば、それは「歴然と見分くる目」に関する問題としてであろう。〈空虚を歴然と見分ける目〉とは、〈意志の姿勢をもって、讃歌を聴き取る耳〉の営みを、どのようなものとして退ける明察なのであろうか? 「音なき空虚」とは、まさに音に伴う空虚であり、鳥々の声、草木の囁きの内に、聴き取られる空虚である。より正確に言うなら、〈私たち〉が、鳥々の声、草木の囁きを、二人で、讃歌として聴き取っているとき、まさにその時に、二人を包む空気と、その「日光の中に」、「忍びこんでゐる」「空虚」のことである。この「空虚」は、讃歌の存在を否定するものでは決してないが、讃歌そのものの直中にも入りこんでいるものである。この空虚は、遍在しているものなのである。しかし、この「空虚」は、正確に言って、どのようなものなのであろうか?われわれは、差し当たり、それを、この詩の文脈の上で、可能な範囲内で、限定することだけを試みておきたい(13)。この「空虚」は、それを取り除くことの不可能な〈もの〉、として把握されているように見える。第四節において、問題になっていることは、その空虚を見分け続けるという人間の態度のことであって、この空虚の存在、空虚の遍在そのものが、否定されているわけではない。空虚そのものは、「歴然と見分けられて」しまうものなのだ。ただそれを見続け、見分け続けることの、価値に、疑問が提出されているのである。「目の発明」とは、ある種の〈目〉が、「音なき空虚」を創り出した・捏造した(erfinden)、という意味ではない。「目の発明」という措辞が意味しているのは次の二つのことである。それは、第一に、〈見分ける目〉と、〈見分けられる空虚〉との相関性である。つまり、〈見分ける目〉によってしか、この〈音なき空虚〉は、認められない、把握されない、ということである。従って、この「歴然とみわくる目」は、先ずもって〈私〉の目であることになる。(〈私〉が〈私たち〉から差異化される契機)。そして、その第二の意味は、「発明」という語にこもる、一種マニアックな偏執性と、それに対する批判的な心情の表現ということである。つまり、この〈目〉をもっぱらに持ち続けること、この〈目〉とそれが見せる(空虚な)光景に固執すること、これが「目の発明」という措辞の、第二の意味である。従って、第四節においては、「音なき空虚を/歴然と見わくる」〈私の目〉の提示が先ずなされ、次いで、〈私〉が、その〈私の目〉に強く固執することに対する、〈私〉の、自己批判がなされている、と考えることができる。この自己批判は、〈私〉が、〈空虚を見分ける〉ただ一つの目だけを持ち、それに固執するのではなく、もう一つ、別の目を持つべきであるということを、語っている。虚空を歴然と見分ける一つの目のほかに、もう一つ、別の、肯定的な目を備えること。------それによって初めて、空虚を見据えつつ、しかもなおかつ、生きることの積極的な意味を、認めることが可能になるであろう。
ところで、第三節からの脈絡で言うと、〈両つの目を持つべきである〉という主張は、その「音なき空虚」を聞き分け、見分けつつ、「讃歌」を聴く、ということになるであろう。それに対し、〈空虚を見分ける目に固執するひと〉は、やはり、決して讃歌に耳を傾けることはない、と言うことができるであろう。先に〈私たち〉は、〈無縁のひと〉と対立し、「手をかたくくみあはせ」て、鳥々や草木の語る讃歌に、耳を澄ませたのであった。しかし今、〈遍在する空虚〉が問題になり、それを〈見分ける目〉との戦いが問題になるとき、この戦いは、先ずは〈私〉ひとりが引き受けなければならない戦いになるのである。それは、未だ、〈わがひと〉が(多分)、問題の所在を、充分にわきまえていないからである。こうして先ず、〈私〉が、〈私たち〉から差異化されて出てくるのである。問題は、〈遍在する空虚〉をはっきりと見分けてしまうと、〈讃歌〉に耳を傾ける気力が、中々湧いてこなくなってしまうことである。そして、この詩が語っている秘密の教えは、その問題が〈意志〉だけでは、ひとが〈意志の姿勢〉を持つだけでは、決して解決しない、ということなのである。実践が必要であり、儀式が、秘密の儀式が、必要なのである。そしてこの秘密の儀式のためには、多分、一組の男女が必要なのである。一組の、それを心から希求する男女があって、初めて、この儀式、太陽を再び照らさせるための儀式、〈太陽の秘儀〉、は、執り行われうるのである。
鳥々が讃歌を歌い、草木が讃歌を囁くためには、「日光」があれば充分であろう。彼らは、それが〈太陽〉の恵みであるということを、生まれながらに〈わきまえて〉いるからである。鳥や草木は〈遠い記憶〉に忠実である(14)。しかしこの詩が語っている状況は、たいそう変わっている。ここには確かに日光が輝いているが、しかし実際太陽が差しているか否か、ということは、(人々には)良く分からない状況なのである。ただわずかの〈具眼の士〉だけが、まさにあの〈音なき空虚を歴然と見分ける目〉を備えた人々だけが、〈太陽〉が消えた、ということを、〈太陽〉が隠れているか、あるいは消滅してしまったということを、知っているのである(15)。というのも、そこに〈音なき空虚〉が存在しているということ、このことこそ〈太陽〉の不在の証拠だからである。
従って、鳥々の鳴き声や草木の囁きに讃歌を聞き取ることが、単なるノスタルジーにならないためには、再び太陽を照らさしめることが、必要なのである。〈私〉が〈わがひと〉に求めているのは、この密儀のパートナーである。ただ〈私〉だけが山に上り、切に再び太陽が照り出ることを希求したとしても、それは叶えられるべきことではない。------それがひとりで為しうるものであったならば、それはとうに為されていたであろう。------ふたりの一致した希求のみが、その稀にしかありえないような一致が、太陽を再び照らさしめる秘儀を、成立させうるであろう。それは殆ど奇跡を行うようなことなのだ。ふたりの切なる希求に感応して、太陽が再び輝くこと、再び輝き、〈音なき空虚〉を見つめて冷え切り、殆ど死してしまった一つの目(=「湖」)を、再び照らし、暖めること。空虚を見る目と、太陽の目とを重ねること。
しかし、この時、太陽は、どのような仕方で、再び輝くに至るのであろうか? それは、太陽を隠蔽していた全てのものが、払拭されるからであろうか? あるいは、消滅していた太陽が、再生されるのであろうか?あるいはそれとも、ただ単に、「人気ない山」に上るだけで、太陽に出会えるのであろうか? 「太陽を…遍照さする」という(ややあやうい)使役的な措辞には、一体どのような行為が、想定されているのであろうか? ------〈山に上る〉だけでは、この〈超自然的〉な使役的措辞を説明するのに充分ではないであろう。山に上った上で、更に何かしらの〈儀式〉が、行為が、想定されねばならず、その場合それは秘儀、あるいは密儀であらざるを得なくなるのである。また、それゆえそれ(儀式)は、〈ふたりで執り行われるもの〉でなければならないのである。それではどちらなのか?〈払拭〉なのか、〈再生〉なのか? ------ここで〈再生〉を想定するためには、〈わがひと〉の影が薄すぎるであろう。つまり、〈私〉と〈わがひと〉の子供のようなものとして、太陽を生み出す(再生させる)ためには、〈わがひと〉の明確な同意が、そこに示されている必要があるであろう(しかし、それが得られないからこその〈哀歌〉なのであろうか?)。また、隠蔽する雲などを〈払拭する〉こと、と考えるためには、詩に〈隠蔽するもの〉についての言及が全くなく、また、「遍照さする」という言葉の使役的な強さに比べて、〈払拭〉はささやか過ぎる行為であることになるであろう。すると、結局、何か〈激しい力業〉のようなことが言われている、と考えるのが妥当であることになる。例えば〈海を消し去る〉ようなことにも勝る、ある激しい力わざが。つまり、太陽を、無理矢理にも、どこかから引っ張り出して来る、というようなことが。実際、「太陽をして…遍照さする」という表現を、専ら〈使役的な強さ〉に重点を置いて読むならば、ここでは、〈自然の秩序〉を明らかに凌駕するある〈力〉が、太陽をどこかから引っ張り出して、湖を遍照する位置に、持って来るというような、大わざが要求されていることになるであろう。(「手力男神」のわざのような)。しかしながら、太陽をも、我意に従わせて、空に引き出す力わざに、アクセントが置かれているならば、むしろ「遍照せしむる」という明確な(あやうさのない)使役表現の方がふさわしいことになるのではないだろうか? 従って、ここではむしろ、「さする」というあやうい使役表現の〈あやうさ〉にこそ注目されるべきだということになるのである。
この〈あやうさ〉は、結局のところ、〈わがひと〉の同意が、〈わがひと〉の〈私〉と一致した希求が、得られるかどうか、分からない、ということに対応するであろう。つまり、密儀の成否は、一重にこの〈希求の一致〉に懸かっているであろうからである。〈私〉の希求に応ずる希求を、〈わがひと〉もまたともになしてくれる、その限りにおいてしか、太陽が遍照してくれることはないであろう。言わば、三者の協同によって、〈私〉と〈わがひと〉が一致して希求し、それに〈太陽〉が感応するという、三者の協同の働きによって、初めて「太陽が、湖の一面に遍照する」という出来事は出来(しゅつたい)するのであろう。「遍照さする」というあやうい措辞は、このような出来事の、決して人為性に帰着せず(密儀が万能ではない)、そしてとりわけ〈私の意志〉一つには帰着しない(〈太陽の意志〉と〈わがひとの意志〉をも必要とする)、不確定的な〈出来事の場〉に固有な、〈出来事性〉を、言い当てているであろう。
そうであるとすれば、しかし、そうであるにしても、〈太陽〉は、やはり、〈呼び出される〉のである。------私が言いたいのは、〈太陽〉が、ふたりの希求によって〈再生される〉ということである。ふたりの希求がある強度を捉えるとき、そのときに、〈太陽〉が、ある振動として、一つのトーン(ein Ton)として、生じて来るのである(16)。「遍照する」とは、さざなみをうたせる、ということなのである。「湖の一面」にさざなみをうたせ、たたせる〈力〉、それがここで「太陽」と言われている強度なのである(17)。それゆえ、この時、ふたりの希求によって再生してくる〈太陽〉は、もはや〈超越的な存在〉ではなく、強度のある決定的な一地点であり、ふたりの希求がそれに達し、それに呼応し、それを〈呼び当てる〉時、その時に、ふたりの〈子供のようなもの〉として、生み出されてくるものなのである。あるいは、より正確に言うならば、ふたりもまた〈強度の子供たち〉として、〈太陽〉とともに生み出されるのである。〈意志の主体〉ではないもの、強度の子供としての自己の生産、それがまさに〈太陽〉を「切に希う」強い希求によって、強度と振動としての世界の〈開け〉とともに、〈太陽〉の〈開け〉とともに、成されるということ、------これこそが、伊東静雄が「太陽をして…遍照さする」という、途方もない使役の関係を含んだ、極めて〈あやうい〉措辞によって、言い当てている事柄であるように、私には、見えるのである。恐らくは、これこそが「詩だけでしか表現されない種類の、思考の正確さ」(書簡一五〇)と、静雄が呼んだ事柄の一つに違いないであろう。強度として思考される〈私〉を、〈湖〉を、〈太陽〉を、------〈さざなみ〉としての存在を、言い当てること、そのことこそが。
われわれは、いまだ、われわれが論及した二つの詩の、相互的な位置関係について、ほとんど何も説明していない。詩「わがひとに與ふる哀歌」を先行させるとき、詩「冷たい場所で」においては、太陽が、既に、秘儀によって呼び出されるものではなくなっている、という点に、われわれは、これら二つの詩の最大の差異を読み取ることができる。後者の詩においては、〈太陽の秘蹟〉には、ただ〈私〉だけが与っているのである。そして、〈ひと〉は、ただ、「私の憩ひ」という私的な願望の視野の中で、呼ばれているのである。〈ひと〉が、もはや〈わがひと〉と呼ばれ得ないのは明らかである。それは、〈わがひと〉が、詩「哀歌」の〈私〉の呼びかけに、応じてはくれなかったからである。「哀歌」と「冷たい場所で」の間のどこかで、〈私〉は、〈私〉ひとりで、〈太陽〉を、さざなみだたせる〈力〉として呼び出す術を見出したようである。あるいは、詩「冷たい場所で」においても、〈私〉は〈太陽の秘蹟〉(太陽が与える幸福)に与っているわけではなく、ただそれが見通され、願望され、そして祈願されているだけだ、と解釈することも可能である。つまり、この詩の場合にも、〈太陽の秘蹟〉は、ふたりの希求によってしか、可能にはならないとされている、と解釈することも可能である。ただ、その場合にも、〈ひと〉は、この詩の場合には、「哀歌」における以上に、遠ざかってしまっているのであり、願いは、〈私〉の直接の訴えによっては聞き届けられず、既に〈言霊の幸い〉に祈願することによってしか、実現される見込みのない遠さに、隔たってしまっている、ということは変わらない。「哀歌」における、〈わがひと〉への訴えが聞き届けられなかったのは明らかである。
そして、この点から、〈わがひと〉という措辞の意味を理解することができる。〈わがひと〉という措辞は、〈ひと〉が、直接に訴えかけられる近さにある、ということを意味しているのである。繰り返しになるが、〈わがひと〉とは、〈私〉と不可分離である〈ひと〉という意味ではない。そうではなくて、〈私と不可分離なひと〉になってほしい、という願望を、直接に訴えかけられる近さにある〈ひと〉のことなのである。しかしそのような願望の訴えかけは、ただ一度だけなしうるものであろう。そのただ一度の行為として、われわれは、詩「わがひとに與ふる哀歌」を位置付けることができる。そして、〈ひと〉が実際、〈私と不可分離なひと〉に成りうるとしたら、それには、ふたりの一致によってのみ出来しうる、ある〈奇跡〉が、ある奇しき出来事が、まさにふたりの希求の一致によって生じることにまして優れた契機は存在せず、それに勝る不可分離性の強度は、存在しないことであろう。詩は、それを〈強度の太陽〉が、あるいは〈太陽の強度〉が捉えられることによって、〈太陽〉が再び呼び出されること、として、描いているのである。------しかし、その願いは叶えられず、その奇跡は出来しなかった。
われわれは今や、なぜこの詩が〈哀歌〉と呼ばれるのか、ということを理解する。それはまさしく、願望を、〈ひと〉に対する希いを、〈ひと〉に対する祈願を、この詩が語っているからである。言葉をもってしては越え難いところに、〈わがひと〉は屹立している。「あゝ わがひと」という一行の、その裏の、一寸先のところに。しかし、詩によって、〈わがひと〉に寄せる希いが、これ以上はない的確さで語られた限りにおいて、その希いそのものは、〈永遠化〉されたことになるのである。なぜなら、その場合には、希いが〈強度〉の一地点として表現されることになるからである。〈哀歌〉とは、叶えられない希いを永遠化しようとする詩的実践、、その希いを、強度の一痕跡として、〈強度〉の図録の中に記入しようとする実践、に与えられる名前のことである。詩人は、その〈哀歌〉を、わがひとに〈与えようと〉する。この、詩と詩集の「表題」においては、〈わがひと〉は、「哀歌」を「与えられる」「ひと」として、「与えられる」ただひとりの「ひと」として、強度の図録の中に引きずり込まれ、〈私〉と一対の、〈私〉から切り離され得ない存在に、させられている(18)。つまり、その場合には、〈わがひと〉は、〈私〉が、〈私〉のただひとりのひとにした、〈ひと〉、を意味していることになるであろう。
われわれは、いまだ幾つかの問題を残していることであろう。われわれがここで論及したのは、ただ二篇の詩に過ぎず、それすらも完全に論じ尽くしたわけではない。とりわけその二遍の詩の相互関係については、まだ、そのほんのアウトライン、〈ひと〉と〈わがひと〉との違いに関する限りでの、若干のアウトラインを、示したにすぎない。要するに〈わがひと〉が第二人称に立つのに対して、〈ひと〉は第三人称の位置にとどまる、ということを言ったにすぎない。また、本稿には、導入だけして、途中で宙吊りにされてしまっている幾つかの主張がある。また、幾つかの課題は、割愛されたままである。そしてまた、論じてきたことの整理も、未だなされていない。しかし、『哀歌』における〈わがひと〉について論ずるに当たって、最要の要となり、頂点をなし、そして最も説明することの難しい問題の幾つかについては、私の解釈が、本稿において、明確に示されているであろう。論じたいことはまだまだあるのであるが、それら論じ残された問題については、また別の機会に論ずることにしたい。
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しかし、念のため付け加えておけば、伊東静雄が、ある一詩人(〈私〉が〈先人〉とする一詩人)のことを念頭に置いており、その詩人のことが、ここでやや安易に持ち出された、と解釈することも、全く不可能ではないであろう。
(3) とはいえ、われわれは、この〈言霊〉を、例えば万葉集における「言霊/事霊」と直ちに同一視しているわけではない。
(4) しかし、多分、この〈空虚さ〉に浸されていることが、この詩集の〈哀切な〉所なのである。この〈空虚さ〉は、「哀歌」の中の「音なき空虚」を解釈する上でも、斟酌されるべきである。
(5) この解釈は、長野隆氏のものである。氏は、「〈半身〉を抱きとめる」ということの内に、〈己〉の「分離」あるいは「分散」(書簡一〇四、ニーチェについての注目すべき考察がなされている)の本源を見て取っているのである。〈私〉の訴えは、この場合には、〈私〉に抱きとめられなければ、虚空へ吐き出される呪いになるであろう。氏の、鋭い洞察に満ちた論文、「伊東静雄の方法」(『詩論』第六号、一九八四、詩論社、所収)を参照されたい。
(6) この時に生じる解釈ラインの一つとして、「つらいひと」と「昔のひと」とを、同一の人物として読み解くラインが考えられるであろう。構文的には、末行の「場所にこそ」は、「真白い花」が「咲く」べき場所の提示となっており、詩行に構文上の断絶はない。従って、われわれとしては、このラインの読み解きの可能性を、ごく微弱なものと考えておかなければならないであろう。しかし、とはいえそれはやはり皆無であるわけではないので、ここに簡単にそれに触れておきたい。それは詩の末尾の四行を、〈後になってからの回想〉とし、それを前六行の〈訴えの時〉とは、時間的に切り離して読む、読み方である。すると末尾四行はこうなる;このように〈私〉は訴えたのだが、〈彼女〉は、やはりその地に堪え得ず、望郷の歌と共にこの地を去った。〈私〉が「真白い花」を咲かせてほしい、と祈ったのは、この、荒々しい岩石の、冷たい場所にであったのだった、と。「つらいひと」と「昔のひと」の〈ひと〉を同一者として解釈するためには、このように、時を、〈訴えの時〉と〈回想の時〉に断絶させる他はないであろう。短い詩ゆえ、その操作にかなりの無理が生じているのは否み難いであろう。そして何よりも、このように読んだところで、この詩の魅力は少しも増えないのである。
(7) この〈慰め〉のメカニズムが、「つらいひと」を「昔のひと」と直結させ、同一化させ、〈今〉を〈過去〉に結び付ける経路、あるいは回路を形成している。〈諦めと慰めの相〉から見れば、すべては過去にもあったことになるのである。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の予言者が語る《Alles war! 》(すべては過去に存在した)(IV - 2)という断言を思い起こされたい。
(8) われわれが「冷たい場所で」の中に読み取る〈二つの対立的アスペクトの共存〉と、よく似た関係は、当然のことながら、有名な「哀歌」の冒頭の二行にも見出される。そして「哀歌」の全体においても発見されるべきである、と思われる。「哀歌」の冒頭の二行、「太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ」では、一行目において、〈私〉は太陽の幸いに満たされているが(〈言霊の幸い〉の相)、二行目においては、その(満たされている)こと自体が〈疑念の相から〉解釈されている。
そして、そもそも、この二つのアスペクトの共在は、本来、全ての〈恋の訴え〉の内に認められるべきものではないであろうか?
(9) ここに「わがひと」に対する〈願い〉を読み取らないのは、〈疑念のアスペクト〉からしか伊東静雄の詩を読もうとしない、偏狭な解釈者だけである。この〈賛同〉と〈協同〉が、詩「冷たい場所で」における、〈(彼女が未知の野の彼方を)信じること〉に対応することになる。
(10) 詩「哀歌」において「わがひと」という措辞は、「わがひとのかなしき声を…」(「行つて お前のその憂愁の深さのほどに」)等の場合のような〈指示的な〉用法においてではなく、「あゝ わがひと」と、詩の外の、〈ひと〉に、〈直接に訴えかける〉用法において、現れているのである。そして、この場合に、この詩の外部の〈ひと〉とは、書簡九六の、ゆり子に宛てた言葉「あなたこそ、私の第一番に送らねばならぬひとです」からして、酒井ゆり子(酒井百合子という戸籍上の人間のことではない)に擬することが可能かと思われる。そして、従って、また、「手をかたくくみあはせ」等の身体行為からしても、「わがひと」の性は〈女性〉であると考えるべきである。
(11) 「わがひと」の意味についてわれわれがここで行っている限定は、さしあたりのものである。そのより正確な限定は、R・シュトラウス/J・H・マッケイの「モルゲン」の「太陽がわれわれ…を再び一つにするであろう」`wird uns … sie(=die Sonne) wieder einen'という詩行の中の「一つにする」`einen' の意味が、モーツアルトの「魔笛」以降の系譜の中に置いて解釈されるときに、なされるであろう。
(12) 詩集の表題、「わがひとに與ふる哀歌」における「わがひと」の措辞の意味作用に関しても、それを一概に〈我有化〉の方向で考えるのは誤りである。詩集の表題のこの名付けは、ある〈ひと〉を、むりやりに〈私から切り離せられないひと〉にしているということではなく、むしろ、自分の、〈ひと〉への思いの、〈永遠化〉を行っているということなのである。ただこの〈永遠化〉によって〈永遠化された相〉においてだけ、〈ひと〉は、------(もはや、例えば、)〈訴えの相手〉ではなく、------〈私と切り離され得ないひと〉に成るのである。そしてまた、われわれは、このように、詩集の「表題」において想定される「わがひと」の一つの意味作用を、詩行の中に現れる「わがひと」の様々な意味作用と、安易に混同してしまうわけにも行かない。(長野隆、前掲書、参照)。
(13) われわれはこの「音なき空虚」を、パスカルの言う「永遠に沈黙する宇宙」(『パンセ』、198, 201 等)に近づけて解釈したい、と考えている。人間も、自然も、それを庇護する者なく、宇宙のただなかに、投げ捨てられている、とする見方である。宇宙の孤児としての人間、〈私〉、〈わがひと〉。われわれのこの解釈は、この「音なき空虚」を、詩「私は強ひられる」の中の「死んだ父」と連関させられる時に、充分に展開されるであろう。
(14) 伊東静雄の詩(とりわけ『哀歌』)における〈太陽〉の特権的な地位を見抜いたのは、菅野昭正氏の卓見である。しかし、氏がそれをプラトニズムの方向で解釈しようとする時、われわれはいささかの疑問を禁じ得ない。プラトニストは、詩人その人ではなく、むしろこの、鳥や草木だけであろう。確かに伊東静雄には、一見してプラトニズム再興の企てに見えるようなものがあり、それが詩に形象化されてはいる。しかし、厳密には、それはプラトニズムとは全く別のものなのである。その時彼自身は、〈音なき空虚〉を歴然と見分ける、というもはや後戻りの利かない地点を、はっきりと見据えているのであり、そこに自らのポジションを明確に置き定めているのである。プラトニズム再興の企てではなく、むしろ、その不可能性の確認が、そして、むしろ更にその逆転が、彼の真の仕事になっている。(菅野昭正、「廣野の歌------深層のレアリスム------」、『読本』所収、参照)。
(15) 「神の死」が、最も遠い星よりも遠い出来事であり、それが知られるためには〈時を要する〉ということ、このニーチェ的なテーマを、われわれはここに読み取ることができるであろう。(ニーチェ、『歓ばしい知識』、III - 125 参照)。
(16) この`ein Ton' については、Karlheinz Stockhausen の`Unbegrenzt'(in Aus den sieben Tagen, Universal Edition 1970)を参照されたい。また本書の「カオスモスの変身装置」の章も参照されたい。
(17) ここの箇所は、山中智恵子氏の目覚ましい鑑賞による恩恵によって書かれている。氏の卓越した前川佐美雄論、「八がしらの猛きすがたは」(『存在の扇』、小沢書店、昭和五十五年、所収)の、「哀歌」に触れた箇所を参照されたい。
(18) 先述したように、長野隆氏の〈わがひと〉解釈が正しいのは、この「表題」における「わがひと」に関してだけである。氏がそこから、伊東静雄の詩そのものの「殊更に意識的な外部世界への無関心(傍点筆者)」(長野隆、前掲書、四二頁)を引き出したりするとき、われわれは氏の説についてゆくことができない。