fj.*の歩き方 (1996 Apr) (5.4)
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5.4「表現の自由の裏側」

fj.*への投稿には表現の自由があり、表現について責任をとる義務があります。
表現の自由を維持していくには、各自の不断の努力が必要なのです。また、表現
の自由も大切ですが、基本的人権というのは、さらに重要なものなのです。表現
の自由を維持しつつ、互いの人権を尊重していくという、その努力を忘れてはな
らないのであります。これは何もfj.*に限ったことではなく、現実社会において
も同様なことであります。


5.4.1「fj.jokesはなんでもポストしていいの?」

fj.jokesはjokeを投稿する所です。jokeということだけで、何を言っても許され
るという考えは、ちょっと甘いです。

jokeであろうがなかろうが、fj.*への投稿には、投稿した人が責任を持つべきな
のです。そもそも「jokeだからこれは許される」という発言は、読んだ受け手が
言う発言であって、投稿した人が言うのはちょっと筋が違うように思います。

読んだ人によっては、jokeだから許すどころか、「jokeにした」ということで、
かえってその怒りに火をつけることもあります。自分にはjokeのつもりでも、相
手はjokeとはとらないかもしれません。それどころか、相手によっては「たとえ
jokeでもこんなことを書くのは許せない」という場合もあるはずです。

そういう怒っている相手に対して「fj.jokesなのに、jokeが解らないなぁ」など
と言うのは、まさに火に油を注ぐ結果になります。そうならないように、相手に
理解する努力や、謝罪すべきものは謝罪するという勇気を持つ必要があるでしょ
う。

特に、他のNGにおいてマジで議論している人の投稿の一部を引用して、fj.jokes
で、からかうのは、ちょっとどうかなぁという気がします。たいていの場合、か
らかわれた人は、気がぬけてがっくりくるか、それとも烈火のごとく怒ってしま
うでしょう。いずれにせよ、fj.*というコミュニティにとっては、あまり歓迎さ
れる事態ではないと思います。

皆さん大人ですから、子供相手に言うように「からかうな」とは、あえていいま
せん。でも、「冗談だろ?シャレのわからん奴だなぁ」というのを逃げ口上にす
るってのは、はたしてどうでしょうか。そういういわば卑怯ともいえる姿勢がわ
かると、読んでる方としたら、白けてしまうし、あまり愉快でないように思うの
ではないでしょうか。

どうか、fj.jokesには、読者が愉快になるようなものを書いてほしいなぁと思う
のです。いえ、どういうのを書いてもかまわないのですか、どうか、読者という
存在を忘れないでほしいのです。

ともあれ、jokeは、各自の責任でどうぞ。そして、状況や内容によっては、joke
が通用しない相手もいることを頭に入れておいた方がいいでしょう。

また、fj.*というのは、参加者全員に公開されている場所です。一部の人達が徒
党を組んで、NGを占領したり、それ以外の人に対して排他的になるというのは、
いかがなものかと思われます。

それは、「常連」という人が占拠してしまい、排他的になることもそうですし、
いわゆるchatをして、仲間内で楽しんでしまうのもそういう排他的なものになる
ことでしょう。

もちろん、chatでも常連でも、NGで投稿している間に、見も知らぬ人と仲が良
くなり、仲間ができることは、それ自体は、頻繁にあることですし、好ましいこ
とです。それについては、どんどんやりましょう。

問題なのは、排他的、特権的な意識による行為なのです。そういう行為は、fj.*
を狭く小さなものにしてしまいます。そして、新しい参加者を阻害し、新陳代謝
や、新しい息吹が入らないようになってしまい、結果として、fj.*が衰退するこ
とになるでしょう。新しい人を、暖かく受け入れるようなfj.*にしたいものです。

もちろん、新規に参加する人も、我を通そうとするだけでなく、fj.*という社会
に溶け込む努力も必要でしょう。新しい人による改革というのも大事ならば、同
時に、続いている伝統や慣習や風習にも、それなりの意味や意義があって続いて
いるものも多く、伝承していくべきものもあるのです。それはどんな社会でも同
じことではないでしょうか。

しかし、仲間内でしかわからないような、陰語のようなひそひそ話をして楽しむ
には、Netnewsというのはあまり適さないように思います。むしろ、ひそひそ話は、
MLでやった方がいいように思います。MLなら、いらぬ邪魔も入りませんから。

もっとも、fj.jokesでは、陰語のふりをした言葉を使って、ほとんど誰もわから
ぬ話をする、というギャグもあります。でも、受ければ効果的なのですが、誰も
わからないから反発されてしまう場合も多く、ここらは両刃の剣といえましょう。

また、専門的なNGで、専門的な議論をしている場合には、そこに参加している
人が専門用語を知っているという前提をすることができます。例えば、ネットワ
ーク関連の議論をしている場合に、「TCP」を説明する必要はないと思います。

また、例えば、「NG」,「ML」という、fj.*に新規参加したばかりの人には
陰語のように思えても、fj.*では常識といってもいいような言葉もあるわけです。

ですから、陰語が悪であるとは、いちがいには言えません。しかし、なるべく広
く理解してもらえるように、そして、fj.jokesでいえば、なるべく笑って受けて
もらえるように、内容や表現には注意することも、やはり必要でしょう。

そこらについては、無法地帯といわれるfj.jokesであっても、無法地帯がゆえの
法があります。それは、「受」です。受ければ万事オーライ的な所が結構ありま
すから。

というか、読者という存在をぬきにしてfj.jokesは考えられません。いや、他の
NGもそうなのです。投稿の評価というのは、読者が各自でおこなうものであっ
て、投稿者の姿勢だの意識だのは、実はどうでもいい話ではないでしょうか。

いいかえれば、fj.jokesでは、読者の「受」というものをぬきしては考えられな
い、といえましょう。ですから、fj.jokesの場合、冗談なら何でもいいかといえ
ば、やはり、「受」がある方がよりよい、ということになるのです。

とにかく、無法地帯のようなfj.jokesであっても、なるべく良いのを見たいとい
う読者がいるということを忘れないで下さい。


5.4.2「ハイな気分」

表現の自由がありますから、何を書いてもいいのです。しかし、書いたことによ
って騒動が発生した場合には、書いた本人が責任を負う覚悟は必要です。あらか
じめ不要なトラブルを避けるには、やはり、強い自制心をもって書いていく必要
があると思います。

ところが、ネットワークに参加し出すと、ともすると、ノリすぎて、気分がハイ
になって、調子に乗りすぎちゃったりする人もいます。これは、通称「ネットワ
ーク・ハイ」といわれているものです。爆発的投稿衝動にかられるのが普通です。

ハイになると、普段ではしないような行動をしてしまうことが多いようです。ま
た、本人のハイな状態というのは、かなり空回りをしてしまい、一人相撲ぎみに
なり、自分で疲れてしまいがちです。そうしているうち、ある時点でハイからダ
ウンに落ち込んでしまいます。場合によっては、fj.*から去ってしまう場合が多
いのです。

ともあれ、短期間に投稿数が異様に増加した場合には、ネットワーク・ハイの危
険がありますので、意図的に少し投稿を控え目にした方がいいと思います。まぁ、
わかっていてもどうしようもないのが、このハイな状態ですけどね。


5.4.3「大きなお世話になることも」

fj.*でも、正義感を持つことは必要です。でも、正義感が強すぎると、現実との
ギャップの為に、自分を傷つけたり、周囲を傷つけたりしてしまいがちです。こ
れは、何もfj.*だけではなく、都市社会では、正義感が強すぎると、ストレス過
剰の症状になるという傾向があるようです。

また、正義感にかられると、ついつい、人に注意をしたくなるものですし、それ
が、大きなお節介になることが多いのです。

なにしろ、人に注意するというのは、かなり慎重にしなければならないのです。
相手がその言葉を聞いて納得し改善しているということがなければ注意の効果が
ないといってもいいでしょう。

ところが、正義感にかられ、かつ精神的余裕のない人というものは、ともすると
「この悪人、まいったかぁ」という口調になってしまいがちです。そうなると、
注意された方は、「ムッ」としてしまい、話を聞く気にはならなくなってしまい、
注意の逆効果になることが多いのです。

そして、注意した人は相手が聞かないから、さらにきつい口調になるでしょうし、
結果として悪循環におちいってしまいます。結果としては、事態は改善されるど
ころか、かえって悪くなってしまうのです。そして、注意した人はストレスがた
まってしまうのです。

こうした事態を避け、fj.*で不要なストレスを作らないためには、「悪を排除す
るのだ」などと思わず、多少の不正や悪は気にしないで見逃すぐらいに、正義感
を少し薄め、相手を容認するだけの精神的余裕、すなわち「寛容」を持つ必要が
あると思います。

でも、正義感にかられている時というものは、やはり、「俺がやらねば誰がやる」
「私がやらねばfj.*は滅亡する」という心境になってしまいがちです。そこまで
思いつめることはないのです。もっと気を楽に、余裕を持ちませんか。

また、fj.*では、強い正義感にかられてしまったり、先のネットワーク・ハイの
時に、傍若無人的心境になる人が見うけられます。やはり、直接相手から殴られ
たり、相手に自分の顔が見えないことから、傍若無人になってしまうのでしょう
か。しかし、ネットのむこうには人がいるのです。そんなあたりまえのことを忘
れてしまうのが、fj.*の持つワナともいえます。

正義感にかられて余裕がなくなっているなとか、ハイになっているな、と自覚し
たら、ちょっと自分の行動に注意したいものです。


5.4.4「いわゆる、差別用語や放送禁止用語について」

fj.*では、表現の自由から、いわゆる「放送禁止用語」はありません。どのよう
な言葉を使うかは、使う人の責任において自由なのです。でも、自分の表現につ
いては自分で責任をとらねばならないのです。

ですから、ある言葉を使い、それを読んで不快になった人がいたとしたら、「そ
の人が誤解している」といったり「禁止用語などない」などといった、逃げる形
だけで常に済ますのではなく、不快になった人達と直面し、誤解があるならば誤
解を解く努力をし、使い方の誤りには素直に謝罪をする、そういう姿勢も必要で
はないでしょうか。

また、どのような言葉を使おうとも、相手の人権をいたずらに傷つけるような発
言は、いかに表現の自由があるとて、許されるものではないと思われます。それ
は、個人の人権や人間としての尊厳は、何よりも優先して守られるものだからで
す。

しかし、ある人の使った言葉を、しかもその語句だけをとらえて、いわゆる「差
別用語」だからと騒ぐ「言葉狩り」では、全く差別廃止、差別解消にはならない
のではないでしょうか。

ましてや、差別や人権とは全然関係のない部分で、その用語が使われたというだ
けでヒステリック糾弾するのは、かえって逆効果ではないでしょうか。

そうです、「差別用語」をなくすことではなく、「差別」をなくすことが大事な
のです。

とにかく、相手の使う用語について、あまりにも神経質にならない方がいいので
はないでしょうか。これは、言葉使いとか、表現だとか、物の言い方だとか、そ
ういう部分であまり神経質になるのは、fj.*においては、疲れるだけになると思
うのです。

そして、あまり言葉について外から制限することで、表現の自由を侵害しないよ
うにしたいものです。どの表現にするか、それは表現する人の自由なのですから。

かといって、読む人が別な感覚を持って読む可能性というのも、頭にいれておく
べきでしょう。確かに表現は、表現をする人が選択しますが、fj.*においては、
それは表現者の一方的なものではなく、「読者」という存在を忘れてはいけない
と思うのです。

そうです、「読者」というものを意識するのと、表現の自由とは、別に相反する
ものではないはずです。

また、記事を書く人が、いわゆる「放送禁止用語」について、あえて避けた表現
を選択したとしても、それもまた同様に、書いた人の表現の自由ではないでしょ
うか。そこらは、各自の責任と判断でおこなわれるものだからです。

fj.*では、どのような表現も自由です。しかし、読者という存在を忘れないで下
さい。そして、fj.*とは、一方的に自分の意見を発表をする場ではなく、双方向
のコミュニケーションをする場であることも忘れないでほしいと思います。


5.4.5「罵倒は不利よ」

fj.*の記事において、特定の相手を罵倒するようなことをするのは、それは投稿
する人の勝手です。しかし、その記事が日本中、いや、世界中に送られているこ
とを忘れないでほしいのです。fj.*は、論争している相手しかいないような場で
はなく、いわば公共に開かれた場なのです。

そもそも、相手を罵倒したり、皮肉ったり、なじったりしたからといって、自分
の有利になるわけではないのです。むしろ、それにより、周囲の人があなたにと
って辛い判断をしてしまう危険だってあるのです。

たいていは、罵倒することは、せいぜいが自分の気分が少し晴れる程度の効果し
かないのです。それよりも、それを読んだ人達が、たとえ関係ない人であっても、
気分を悪くしてしまい、あなたに対して悪感情を持ってしまうという、逆効果の
方がむしろ大きいのではないでしょうか。

傍若無人に相手を罵倒したければおやりなさい。相手に皮肉を言い、相手を不快
にすることで、相手が興奮し、そして自分の優勢が確保されると思うならば、お
やりなさい。fj.*においては、自殺行為になることも、馬鹿なことをすることも、
自分で不利にするという自由もあるのですから。

でも、議論をしている相手だけいるのではないのです、周囲に人がいるのです。
あなたが思っているより多くの人があなたの投稿を見ているのです。いかに意見
は意見として見ようと努力をしても、やはり、罵倒したり、皮肉めいて言う人の
意見は、素直に心良く受けとめることができないでしょう。

相手の自分に対する寛容さに期待するのではなく、まず自分が相手に寛容になる
べきです。そして、相手に厳しくあたるのではなく、まず自分に対して厳しくな
るべきではないでしょうか。相手に受け入れてもらおうと思うなら、まず自分が
相手を受け入れるべきではないでしょうか。

それは、何もむずかしいことではないのです。相手に何かを期待するのではなく、
まず自分が何かに努力する、それだけなのです。その方が精神衛生上楽ではない
でしょうか。

まあ、気楽ぅに。長ぁくfj.*に、かかわっていきましょうよ。