その気になれば、fj.*では、人の名をかたって投稿することだって可能なのです。 同様に、誰だか全くわからないように匿名で投稿することだって、十分可能です。 でも、あることが実行可能であることと、それを実際に実行することとは別の話。 そして、あることが実行可能であること自体は、あることを実行することが正当 であるとはいえないのです。 よく考えて下さい「それが出来るようにしてる方が悪いんだ」というのは、ある 一面では正しいかもしれませんが、それだけを自己正当化する理屈とするのは、 まさにガキの屁理屈以上のものではないような気はしませんか。 ちょっと飛躍しますが、たいていの人にとって包丁で人を刺して殺すのは可能で す。包丁には人を刺すことを防止する対策がされていません。「対策をせず、そ れが実行できるようにしている方が悪いんだ」といって、見も知らぬ人を包丁で 刺すという行為は、人間社会では容認されない行為であり処罰されるのが普通で、 その処罰が抑止力になっているのです。 そうです、道具に行為を防止する対策がほどこされていなくても、社会の方で行 為に対する対応がある場合というものはよくあるのです。ですから、「それをす ることが可能である」というのは、それ自体は自己正当化の理屈としては弱いの ではないでしょうか。 「匿名とペンネームはどう違うのか」ということについては後で述べます。先に いってしまえば、ペンネーム的なものはかまわないと思います。問題なのは、電 子メールも届かないような偽のアドレスを使った、偽造された匿名による投稿で す。ここでは、このような、誰だなのか全然わからず、その文章について責任が 問えないようなものを「完全なる匿名」と呼ぶことにします。 そして、完全なる匿名とか他人の名をかたるという行為は、「可能である」から 実行していい、という理屈にはならないのです。 では、何故、完全なる匿名と他人の名をかたるのが、fj.*という社会で問題なの か、を考えてみましょう。 fj.*は、他の人間社会同様に、相互の信頼の上に成立しています。まず、それぞ れの個人は、発言を自由に行うことができ、同時に発言に責任を持つという関係 が成立しています。 完全なる匿名とか、他人の名をかたるという行為は、意図はどうであれ、そうい う相互の信頼関係を壊してしまうのです。特に、他人の名を勝手に使って投稿す る行為は、勝手に名前を使われた人に対して多大なる被害を及ぼす危険がありま す。 発言に責任を持つということには、発言に対する反応のメールを(海外等の特殊 事情の場合を除き)受けとれるということが含まれてくるのです。ですから、少 なくとも、メールがちゃんと発言者に届くようになっていないと、無責任発言だ と取る人が多いことでしょう。 さて、完全なる匿名についてですが、これは、いわゆる、ハンドル、筆名、 login名、等とは根本的に違うものです。では、どういうものかというと、電子 メールも届かないような、いわゆる偽(fake)アドレスを使ったものなのです。 まだ、電子メールが届けば、その人が本当は誰であろうがメールで反論もでき ます。それすらもできず、誰なのかわからない、そういうのを、ここでは「完 全な匿名」と呼んでいます。必ずしもこれはfj.*で一般的に使われている用語 ではありません。 完全なる匿名は、完全に自分を匿してしまう反社会的ともいえる行為です。しか し、ある状況では常にその名を使うという筆名というものは、芸名や俳号同様に、 一般社会でもしばしば使われており、社会通念上も認められています。ですから、 fj.*において筆名を使うというのは、それ自体は、それほど反社会的な行為だと は思えません。 ですから、「fj.*ではこの名を名乗る」という行為は、一般社会通念上認められ る行為なのです。ですから、login名やFrom の括弧の中には本名を書かなくては いけないということはないのです。なにせ、fj.*には個人で参加するわけです。 ですから、別に本名でなければいけない、というものではないのです。 そして、完全なる匿名というのは、fj.*という社会で許容される範囲の仮面やペ ンネームではなく、偽名、それも、かなり悪意があり愉快犯的なものというもの を指します。 同様に、Organizationには何を書いてもいいかというと、それは常識で判断して もらいたいです。勝手に実在する部署だと偽るのは、たいてい問題になります。 だから、fj.*では、書く人の都合や意図で、どのように名乗ろうが勝手だと思い ます。しかし、書く人の都合や意図はともかく、読む人がいることをお忘れなく。 偽りでだますのでないにしろ、明らかに架空な部署を所属にしていたり、名前が 作りもの臭い人に対して、読んだ人が、ユーモアのある人だと思ってくれればい いのですが、たいていは、信頼できない発言者だと思うのが多いのではないでし ょうか。 とはいえ、何をするにしても、程度の問題ですし、それが受け入れられればかま わないといえましょう。 ですから、例えばguestという一つのIDを複数で共用することや、機械的に匿名 化された記事というのは、まだfj.*では受け入れられていません。なにしろ、本 当に発言したのは誰かかわからず、誰がその発言に責任を持っているのかわから ないからです。今後、そういうものも受け入れられていけば、また違ってくるで しょう。 別の側面から見てみましょう。そうでなくても、匿名といった仮面をかぶると、 よほど人間ができている人以外は、実体としての自分に火の粉がかからないとい う状況のために、ともすると品性が下劣になり、無責任になるという傾向が多い ようです。 逆にいえば、そういう傾向があるために、程度によって違いますが、匿名による 投稿というのが、fj.*という社会になかなか受け入れられないということでしょ う。 まあ、素直に、何処の誰であるということを明確にした方が、読む人にとっては 好感が持てる場合が多いようです。 いずれにせよ、行為者の意図というのも大事でしょうが、fj.*という社会での受 けとられ方というものが大事ではないでしょうか。もし完全なる匿名というのを fj.*が容認できる社会になれば、そうなれば匿名の投稿も可能になるでしょう。 しかし、fj.*はそういう状況にありませんので、匿名的な行為はなるべく避け、 無用なトラブルは避けた方がいいと思います。
新しく参加した人には信じられないかもしれませんが、fj.*という所では、普通 に何気なく言った言葉を、悪い意味(無責任や悪意のニュアンス)で取る人がい るものなのです。これは、読んだ人が悪意に満ちた悪人だから、というわけでは ないのです。 まず、fj.*でのコミュニケーションは、いまのところ、実時間性に乏しい非イン タラクティブな文字による通信のみです。文字だけでは、文字以外の、例えば表 情とか言い方とか、そういうもので表現される、微妙なニュアンスが伝えられな いのです。 そのため、どうしても、自分の意図が相手に伝わり難いという傾向があります。 そして、それが双方で行われてしまい、誤解とかコミュニケーションがうまくい かず、議論していても、どんどんと非建設的な不毛な方向に双方が向ってしまう 傾向があります。 さらに、人によって受け取り方に差があるという「十人十色」という傾向がありま す。自分では何でもないと思っている言葉も、相手にとっては疳に触る言葉である 場合があります。 例えば、しばしばみかける「通りすがりの***です」をうっとうしいと考える 人もいます。このフレーズが「議論にたいして一言いうが、反論はしないでほし い、という甘えが出ている」という人もいるのです。 また、「通りすがりの・・・」「・・@初心者ですが」「茶茶ですが」と前置き する場合も、「そう書けば、その後は何を書いても免罪されるとでもいうのか!」 という人もいます。 これらは、書いている人の意図が伝わっていないという問題と、同じ言葉について そこにある「甘え」を感じる感じないという差もあるようです。 また、例えば、「NE○、富○通といった、あまり意味のない伏せ字はやめて!」 という人もいます。 こういう伏せ字というのは、最初から、モロに書いたのとかわりなく、モロに書 いても同じなわけです、モロに書くことができないなら、最初から、某社ぐらい にしておいてもいいわけです。そして、こういう伏せ字は、冗談ならともかく、 それ自体があまり効果的ではないし、「モロに書いてないから許してね」という 甘えが見えてしまうのです。 いずれにせよ、「十人十色」の受け取られ方をするfj.*では、「こう書いておけ ば絶対安全」ということはないのです。一般常識に従っていても、せいぜいが 「比較的安全」ぐらいといってもいいでしょう。 こう書くと、fj.*が何かとんでもない所のように思われますが、実はfj.*で発生 する、受け取り方の差というものは、普通の社会でも発生しているのです。単に それが顕在化していないだけであり、また、相互の間で顔色だとか声の調子とか の情報により、受け取り方の差が修正されていっているだけではないでしょうか。 皆さんも、fj.*には、文字通信であるということから来る欠点があることを理解 して、また、「十人十色」となる傾向も意識してもらい、その上で、より豊かな コミュニケーションをおこなってもらいたいのです。
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれているように、喧嘩口論、暴力沙汰というも のは、人間社会からは、なかなかなくならないものです。ましてや議論をしてい る間に、興奮し、口汚なくなるだけならともかく、口より手が出てしまうという ことは、よくあること。 fj.*でも、互いに意見が喰い違ってくると、喧嘩口論となってしまいます。そう いう意味では「chatと喧嘩はfj.*の華」とか言えるかもしれませんね。こういう Netnews上での口喧嘩というのは、高見の見物で見ている分には面白いものです。 しかし、fj.*でよくあるような、まるでガキの喧嘩のような、みっともない口喧 嘩というのは、正直見たくもない場合が多いでしょう。そして、自分にそんな火 の粉がかかってくるのは、誰しも厭なものだと思います。 どうしてfj.*で意見が喰い違うと、必要以上に口喧嘩モードになってしまうので しょう。それは、ひとつには、コミュニケーションに使っているものが文字だけ で、しかもインタラクティブでないことがあげられます。そういう状況だと、ど うしても相手の表情とか気持ちは、推察するしかなく、その場合に悪い方悪い方 へと考えてしまい、相手がとんでもない悪意の持ち主であるように思い込んでし まうものです。 そのため、こうした口論では、「言ったの言わなかったの」「こっちの意見をよ く読んでから言え」という状況になってしまいがちです。こうなると、自分は迫 害されている正義の味方であり、相手はあたかも悪意のかたまりであるかのよう な気分になってしまい、それが双方で増幅し合い、周囲がうんざりしてしまう状 況にまでいってしまいます。 そして、どうしても、「自分は正しい、相手は間違っている」という気分と、 「議論では正しい結論を出すのだ」という思い込みから、「結論は私の意見でな ければ駄目だ」そして「相手を徹底的に否定したい」というような調子になって しまうようです。 ちょっと待ってくださいよ。fj.*での多くの議論というのは、何もひとつの結論 を出すことだけ、それだけが目的ではないとは思いませんか。結論が出て、ある 意見が正しいと証明されることも大事でしょうが、それよりも、問題を解決する こと、そちらの方が大事ではないでしょうか。 ましてや、fj.*での議論というのは、何も相手を言い負かすことを目的とするも のではないと思いませんか?fj.*での議論には、まずは「問題を解決する」とい う目的がある場合もあるでしょう。しかし、「相互にコミュニケーションをとる」 というのが目的である場合もあるはずです。 そうなのです、色々な人が情報や意見を交換し、コミュニケーションをとること 自体を楽しんだり、コミュニケーションの結果、何らかの得るものがあったり、 自分を成長させる、ということだってあり、また、それらを目的にする場合だっ てあるのです。 fj.*で議論になる話題というのは、だいたい簡単に結論が出て決着する議論だけ ではないのです。なにせ、「リンゴとミカンどっちがバナナか」みたいなのも結 構ありますからね。むしろ、結論を出すことが目的ではなく、色々な意見が出て、 議論に参加している人、それを読んでいる人が楽しめるようなタイプのものもの もあるのです。 こういう議論において、いきなりある意見が出て、全員「わしもそう思う」とい うことになると、そこであっという間に話が終ってしまいます。「AはBである、 はい以上で終り」というように話がチャンチャンと終ってしまうと、その後の話 題の発展性までなくなってしまいがちです。 万人が完全に一致ということは、まずないのです。皆が自分と同じであるのも結 構でしょうが、多少の意見の相違があるほうが、自己の成長につながったりする と思います。皆が同じであれば、そこからの進歩というものはなくなってしまう のではないでしょうか。 そういう、ある意味で議論を楽しむような、というか、ワイワイと雑談をするの が目的であるような議論において、「勝負!」といったかんじで、自分の意見を 結論とするような調子で議論をする人がいると、悲劇になるような気がします。 そうでなくても、fj.*で議論される話題には、fj.*をどうするかといったものが あります。こういう議論では、矛盾し不完全である「人間」、および、「社会」 という要素がからんできます。 こういう要素がからむと、唯一の「絶対的尺度」では計れず、むしろ、複数の観 点から複数の因子の間でトレードオフをし、なるべく最善となる解を探すという 方法論になるのです。 こういうトレードオフをとる場合には、どの因子に重きを置くかが重要になりま す。その時に、それぞれの人の思想や人生、とまではいわなくても、その人とな りが見えてくるのです。ですから、そういう話題というのは、盛り上がるし、外 から見ていると面白いのです。 逆にいえば、そういう状態だからこそ、自分の意見を否定されると、まるで自分 の全人格を否定されてしまったと思う人が出てくるわけです。 たかがfj.*じゃないですか。たかがfj.*での議論じゃないですか。自分の意見が 通る通らないというのに、それほど熱くならないように、注意したいものです。 しかし、こう書きますが、実際に自分が議論の渦中にいる場合には、ついつい熱 くなってしまい、何も見えなくなってしまいがちです。ですから、意識的に、よ り冷静になるように気をつけて下さい。 それに、fj.*で議論になった場合、ともすると、そこに登場して意見を言ってい る人しかこの世に存在せず、その人だけを説得し、彼らの意見を論駁すれば済む ような気になってしまいます。 でも、fj.*は、そこで意見を言わないが、議論の推移を見ている人、沈黙の聴衆 がいるのです。その数の方が、意見を出している人よりはるかに多いのです。 そして、fj.*での議論は、ある意味で、飛び入り自由のバトルロイヤルです。沈 黙していた場外の聴衆も、場合によってはリングの上に上がってくるのです。 このようなバトルロイヤルでは、議論を楽しむならともかく、結論を出そうとす るには向きません。次々にリングの上で相手を破っていっても、リング下から次 々に上がってきてしまい、なかなか決着が付かないのが普通です。そのうち、皆 が闘うことに疲れてしまい、うやむやに終ってしまうのが普通です。 ですから、結論を出すのが目的ならば、NGMPのように、単に議論をするのだけで はなく、何らかの合意形成のプロセスが必要になるのです。 fj.*においては、合意形成は民主的に行われます。議論の時に意見を言った人だ けでなく、議論を見守っていた人も、合意形成に加わってくるのです。 合意形成ということを考えれば、直接議論の相手を説得するだけでなく、その議 論を見ている聴衆をも説得する必要があるのではないでしょうか。リングの上で 目の前にいる相手と同様に、リングの外にいる聴衆の存在は無視できないと思い ます。 そういう観点からいうと、fj での議論は、ある意味で「パネル・ディスカッショ ン」ともいえます。 パネル・ディスカッションでは、普通、無理に結論を出すようなことはしません。 また、議論をしている人達(パネリスト)を見ている多くの参加者がいるし、会 場から横やりを入れることもできます。パネリスト達が多くの意見を闘わせてい るようでも、それを最終的に判断するのは壇上のパネリスト達ではなく、会場に 参加して議論を見ている人達なのです。 そして、パネル・ディスカッションでは、パネリスト達が議論をすることで、会 場にいる参加者達が、何かを得る、そのことが重要といえましょう。もちろん、 そうでないパネル・ディスカッションもあることはあります。 ですから、fj.*の議論でも、議論すること自体を楽しむ場合は、まさにパネル・ ディスカッションなわけです。パネラーも参加者も、相互に何かを得ていくこと、 それが重要なのです。さらに、結論を出し合意形成をするような場合でも、やは り最後の合意というのは、聴衆も参加するのです。 ということで、議論をする場合に、「聴衆」という存在も忘れないでほしいのです。 そういう意味で、思いつく注意事項を箇条書きにしてみます: ・分かってもらえない人には百年たってもわかってもらえないものだ。 特定の誰かを説得しようとするのではなく、多くの人にわかってもら える意見を書きましょう。 ・議論しても何も得るものがなくなって来たと思ったら、さっさとひっ こむ勇気も必要でしょう。 ・挑発には乗らない。挑発するような人の意見は、たいてい誰も重要視 していないのです。 ・いくら熱くなっても、記事を書く時には、一応の礼儀は守るべし。 ・すべての記事にフォローするような努力しない。フォローしたくない とか、無視したいものは無視すればいいのです。何もそこの相手にフ ォローすることが全てではないのです。 ・また、相手の文章のあらゆる部分すべてに、それぞれ反論を書こうと はしないこと。相手の記事を全文を引用し、そのすべての部分に反論 をしていく人がよくいますが、これをやると、議論が本筋から離れが ちになりますし、相手の言葉尻をとらえるような議論になってしまい ます。なるべく、相手の意見のキモの部分だけ引用し、そこに反論を するようにしましょう。 ・あまり正義感や責任感を強くしないこと。ある意味で「言いっ放し」 でもいいんです。十分な説得力があれば、何回も言う必要はないので す。それに、たかがfj.*じゃないですか。あまり思いつめないこと。 ・議論が熱中すると各自の投稿数が増加し、議論の展開が異様に速くな ります。そうなると、議論する方も大変ですが、読む方も大変です。 なるべくマイペースに、また、速すぎるなと思ったら、投稿をひかえ ぎみにしていきましょう。そうしないと、議論があまり進まないうち に、皆が疲れ果ててしまい、誰も何も得るものがないままで終ってし まいます。 ・疲れたら、熱くなったら、休息するのが一番です。