お茶でも一服 遺伝子をめぐる冒険
今西説って知っていますか。生き物はある日に突然に種が丸ごと一斉に進化したっていう進化論です。進化には理由もなく、生き残るかどうかなんて運しだいだという、なんともいい加減な進化論はけっこう日本ではやったのです。理屈はいろいろ変わりながらウイルス説にたどり着きました。
もともと、今西説の魅力は、その思索の深さにありました。種とはなにか、生物とは何か、社会とはなにかを思索していくことが、今西説の特徴だったのです。
たとえば、適応について、適応した生物が生き残ったことになっているが、生き残った生物は適応しているのだから、生き残ることと適応の関係は分からないだろう、というのです。適応の尺度となる適応度を生存率で求めることに対する反論でしょう。生き残った理由は適応によるとは断言できない、適応していなくても生き残れて、適応していても滅亡している可能性があると主張します。ましてや適応能力の差は生き残りには関係がないのです。循環論による同語反復のため検証不可能なので科学的論理と認められないとかいう、トートロジーってやつですね。あの、マルクスの資本論も循環論が発見されて否定されたと読んだことがあります。
今西説がウイルス説に走っちゃって、進化論は退屈になってしまったと思いませんか。同じようにトンデモ学説扱いされてはいますがウイルス説のように品のないものに飛びついちゃって、まあ。遺伝子をみじんも省みずに、進化なんかしていない、という主張は進化のなにも説明はしていなかったけれども、なんだか進化ってなに言ってもいいんだなという爽快感があったものです。
でも、やっぱり遺伝子を説明するためにウイルス説とかいう進化論にとびついてしまいました。ウイルスが遺伝子を伝染させて進化は終わりなんて、つまんないでしょ。その伝染する前の遺伝子はどこでできたの。なぜ、いまはそんなに強力なウイルスがないの、とか色々考えることはあるでしょ。突然変異→ウイルスの伝染→自然選択→進化なんて、自然選択の万能説そのままなんですから、ウイルス説が成り立つのなら万能説はもっと成り立っちゃいますよねぇ。ウイルスの伝染がない分だけ偶然が減るのですから。
通常の突然変異は一定の方向をもたない、でたらめなものですが、自然選択は無秩序から秩序をつくりだす仕組みなのです。(この秩序は結局は突然変異を排除する方向に走るのですが)
有利な突然変異のあまりにも少ない確率は、どんなに大きな時間と空間が与えられたとしても、進化を説明するのに偶然だけでは不可能でしょう。自然選択と突然変異を説明しなければ、まともな進化論ではありません。
だから、遺伝子を説明しないと、やっぱり進化論じゃないのですよね。
今西説は結局のところ、「種」が進化するんだという、現在の生態が種毎に決まっていることが、ダーウィニズムとは矛盾することをいろんな言葉でいってただけなんだなと思います。種を単位にする進化論だったらなんでもよかったんですよね。
この今西錦司氏は、何年か前に新聞を賑わしたことを覚えていますか。お亡くなりになったんですが、相続税を納めるときに、彼が大切にして近所からは「今西の森」と呼ばれてた木がいっぱいのきっとすてきな庭があったのですが、これを更地にしなきゃいけなかったんです。ご夫人は、税金として納めるのはいいけれど、更地にはしないで、このまま公園かなにかで使ってほしいと強く希望したのです。今西氏は文化勲章かなにかとった有名人です。彼を尊敬している生物学者は山ほどいます。だけど、日本の税制がいかにくだらないか、私は思ったものです。結局、更地になることになりました。きっと、鬱蒼とした、すてきな森だったんだろうなぁ。