こーひーぶれいく 遺伝子をめぐる冒険
現在の進化論は、形態の進化は、有利な突然変異と正の自然選択の繰り返しによるものとしている総合説が優勢です。
一方で分子レベル、つまり遺伝子の進化では有利でも不利でもない(中立の)突然変異が自然選択に関係なく蓄積していくという中立説が優位に立っています。
進化論は、「進化には目的がある」という言い方を大変嫌います。「たまたま突然変異したものが生き残った」というのが「科学的」な考え方です。
したがって、形態と遺伝子の進化を統合するときには、「中立の突然変異」が「有利な形態」にはどうしたらなれるかを考えるわけです。
けっして、「有利な形態」が遺伝子にどう影響できるかを考えません。そんな考えは「非科学的」なのですね。
一般の方が進化が、「○○のためにXXが進化したんだ」、とかいうと誤解されてると思って不愉快で歯がゆい気分に学者さんたちはなります。「XXが進化したために○○ができるようになった」といってほしいのです。「XXが進化したために○○ができるようになったものが生き残った」、といってもらえると大感激でしょう。
でも、そうは行きません。獲得形質の遺伝と、種の保存の考え方は、あまりにも実感になじんでしまうのです。
前の文を具体的に言ってみるとわかります。「飛ぶために羽が進化した」「羽が進化したために飛ぶことができた」「羽が進化したために飛ぶことができるようになったものが生き残った」・・・どれが、実感として受け止められますか。
頑張った分だけ進化する、種はみんなで協力して進化していった、なんて考えやすいのですよ。
偶然に宝くじに当たったものが生き残り、そのまま平凡にまじめに生きていると滅亡するなんて、実生活の感覚と違いすぎます。
偶然にたよって生き残れるほど社会は甘くない、偶然がなければ滅んじゃうなんておかしい、っていうのが実感なんですね。
では、ダーウィニズムが社会に広がった理由はなんでしょうか。
それは資本主義が生まれた時期だったからです。「運と実力」があるものが生き残るという考え方が、当時の世の中にぴったりだったんですよね。
そう考えると、中立説も「趣味や遊びのような無駄なことでも色々やらなきゃいけないよ」という時期に発達したような気がしますよね。
次は、どんな進化論がはやるのでしようか。