高知編(中)29番札所国分寺から36番青龍寺まで |
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路面電車に置かれていたほおずきの鉢植え。ちょっとした事で、なんだかほっとする。 |
ホテルから再び宅急便を出す。荷物をさらに軽くするためだ。人間、自分で運べるていどの荷物しか持ってはいかんな、とつくづく思う。荷物の中には、お遍路さんのユニホーム「白衣」「すげがさ」「輪袈裟」も入れた。もはや、お遍路さんではない。白衣は洗濯しても一日で乾かないし、すげ笠も頭に接する部分にサラシが巻いてあるため、剣道の防具のような臭いがする。お遍路さんの痕跡をしめすものとしては、金剛杖があるのみだ。夏場に白衣を着て回る人は歩く人ではなく、車で回る人だけだということがわかってきた。用は心の問題と自分に言い聞かせているが、すげがさの代わりにバンダナを巻き、サングラスをかけ、無精ヒゲを伸ばしている姿は、ペンションのおやじのようで、とても仏様を巡礼しようとしている人間には見えないだろう。
町を練り歩くほかに、競演場という舞台ができ、そこで審査があり団体と個人とかいろいろな賞がある。練習をみていたら、ジャズダンスの先生みたいな女の子が走りまわりながら、振り付けを元気よく説明したり「男の子〜っ! 声がでてないよ〜!」などと叫んで、練習もなかなか迫力があって楽しい。本番ではチームごとに工夫を凝らした衣装になるらしい。踊りの特徴は「鳴子」という、しゃもじ型カスタネットを両手に持つこと。これもチームごとに色を変えたり工夫する。
博多どんたくなんて、比べ物にならないくらい熱い踊りになるだろう。このくそ暑い中、二百人も集まって練習するなんてすごい! それが何チームもいるんだから。いまどきの若者が、踊りに燃える夏があるなんて、本当、すてきな町だ。高知に転勤したら、参加するぞ! って、そんな転勤はないんだが。
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足下にまとわりつく子猫。動物にしても人にし ても、こうやって「歓迎」されると、彼らが住 んでいる場所を通らせてもらっている、という 謙虚な気持ちになる。こういう気持ちになると 、空き缶を投げ捨てたり、車の灰皿を路上に捨 てたりということはないのだろう。土地土地に 生きるものたちが見えなくなると、相手を尊重 する気持ちが消え失せる。悲しいことだ。 |
近所の人たちが「あれ、みて、ついていってる」と衆目を集めたが、そうそうついて来られても困る。足を早めると、むこうも一生懸命走ってくる。離れると「にゃあ」と鳴いて呼び止める。足早に離れようとするのが、なんだか可哀相な気がしてくる。通り掛かったお婆さんが猫をみて「まあ、どこの猫」と話しかけてきたので、事情を説明していると、子猫たちもお婆さんのほうが気になり出した。今がチャンスと歩きだしたら、ついてこなかった。ほっとしながらも、淋しい気持ちもちょっぴり。
山道など一人で歩いていると、ヘビとかアマカエルとか、ヤモリとかいろんな生き物に出会う。道端の犬猫もなんとなくうれしく「通らせてもらってるよ」と、あいさつする。同じ生き物、同じ命なんてことを、思うことがある。なんか宗教的になってきているのか、淋しいだけなのか。
この日、四分間ほど渡し船に乗った。遍路の正規のルートなのだそうだ。無料である。待合で八十歳という老人に、大平洋戦争で受けた傷など見せられながら、フィリピン、ジャワ戦線の話などひとしきり。山口から来たというと「おう、長州か」と威勢がいい。
宿に、体重計があったので乗ってみた。七八・五キロ。なんと十日目にして一キロしか減っていない。なんてことだ。今夜は夕食抜きである。
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