香川編(下)


86番札所志度寺から88番大窪寺まで

結願所の文字が見える。まずは無事に感謝する


カーブを曲がって堂々とした仁王門が見えたとき
には、心底嬉しかった。この日も炎天下。道ばた
に何度も腰を下ろし、休み休みの登山だった。お
盆でもあり、山道では参拝客の車が何度も追いこ
していったけれど、車ではこの喜びはなかっただ
ろう。                   
 八月十四日。八十八か寺。満願成就である。朝、福岡は豪雨というニュース。だが高松はしっかり晴れである。宿を変えることにしたので、荷物を背負って出発だ。どうせ高松に泊まるのだから、コインロッカーに一部を置いていけばよかったのだが、まじめに全部背負って歩き出したら、前日に足を酷使したこともあってかなり重い。高松市の中心街、瓦町から電車で三十分ほどで八十六番志度寺へ。八時半に出発し八十七番長尾寺まで二時間半。そこから五時間かけて八十八番大窪寺までの山越えに向かった。距離にして二十五キロあまり、思いのほか辛かった。

 八十八番への登山は、遍路道ならば五キロ短いのだけど、遍路道は急坂で、ヤブも多く道も悪いので車道を進んだ。ただ、車道は暑いが、一方で自販機もあったりして便利。だが、それでも昼食を取るチャンスには恵まれなかった。

 「あーっ、着いたー!」  大窪寺に到着すると、思わず声がでた。満願成就というほど祈願することがあったわけではないが、アタックしたという達成感がこみあげてきた。納経帳に記帳していただき、全く白紙だった帳面が、八十八の朱印で埋まったのを見ると、事故もなく病気もせず健康で回れたことに感謝する。弘法大師のおかげなのかしらん。そして歩くことで気づかされた諸々……それは四国の風景か、自然か、人か、森羅万象というと大袈裟だが、そんなものに有り難さを感じる。

 八十八番参拝を終えて、午後四時。タクシーを呼んで長尾駅まで戻り、高松に戻る。満願成就のお祝いに、町に出て服を買いに出かけた。足が軽い。

 

 

修行者ではなかったけれど
歩いた記憶は身体が忘れない


大窪寺本堂前で記念撮影。歩きに歩いた旅の終わりだ。
 まとめらしいこともないが、来てよかったのいうのが実感だ。目的だったダイエットはどれくらい達成できたのか、わからないが、いくぶんかは軽くなったことだろう。ウエストのサイズではないが、自分の大きさを知るというかな。どれくらい歩けるのか、どれくらいの坂道を登れるのかということから始まって「人間の大きさ」を知らされる旅であった。

 車のことを書いたが、ふだん、自分の力じゃできないような、速く走ったり思いものを運んだり、能力を越えたいろんなことをやっている。それが人間たる所以かもしれないが、こうして歩いてみると、そこから人間の業が始まっているように思えてくる。自分の大きさを越えたことをやるたびに、人は傲慢になっていく。

 弘法大師が四国で修業して、何を見たのかを想像できるほど、ぼくが修業したわけではないが、お大師さんも人間の大きさ、人の領分みたいなものを感じたことだろう。お大師さんは自分と日々闘いながら、自分の力を見極めた上で、人の領分を悟り、それによって神仏の領域を見たのではないか、と。たぶん、仏と対峙しながら、自分の能力を精一杯出し切って生きていくことが、大切なことなのだ。

 だからといって、修業者にはなれないし、実際、修業などとは縁の薄いわたしだが、仕事をする上でも、日々を送る上でもかなり大切な感覚を与えられたように思う。この一カ月近くの記憶が、これからの自分の足元を照らしてくれることを祈りたい。

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