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「やさしいバイオテクノロジー」サポートページ !私家版

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芦田嘉之 著
「やさしいバイオテクノロジー
血液型や遺伝子組換え食品の真実を知る」
サイエンス・アイ新書
ソフトバンククリエイティブ:200701月発売
945
円(税込み)
ISBN-13: 978-4797338904
  ASIN: 4797338903

サイエンス・アイ新書


訂正 文献集 カラー図版 おまけ サポートホームへ


いろいろご意見をいただいています。以下に覚え書きをしたためました。
まだ、書きかけです。話題も増やしていきます。
以下の記述は次著に組み込む予定です。

    1. 本書の方針
    2. 本書のターゲット
    3. 「遺伝子組換え食品は安全だ!」?
    4. 科学的とは?
    5. 「安全」と「科学」
    6. 科学的な説明とは
    7. 小中高の理科・科学
    8. 買ってはいけないの誤解−純粋真っ直ぐ君
    9. 血液型の話題
    10. 植物の生体防御機構と無農薬栽培
    11. 本書の方針

サブタイトルの「血液型や遺伝子組換え食品の真実を知る」を知るために必要な基礎知識を身につける。
そのため、遺伝子やゲノムといった基本用語を重点的に解説する。
生化学の教科書ではないので、DNA、遺伝子以外の生体分子の説明はほとんどしない。
なるべく分子のレベルで説明する。
なるべく本物に近い説明を試みる。そのため、アナロジー(例え話)はなるべく避け、化学式や塩基配列などもあえて含める。

特に、遺伝子の構造を視覚的に把握するためにも、具体的な遺伝子の全配列をあえて掲載しました。入門書で(生化学の教科書でも)このような例はあまりありません。

DNAの構造を○や△などの記号で表したり、コドンを言語とのアナロジーで説明する入門書は多数ありますが、かえってわかりにくいと判断し、模式図やアナロジーは避けました。それでも、ゲノムと遺伝子の理解は難しそうなので、最後に野球のアナロジーを付け足しました。

    1. 本書のターゲット

もともと高専4年生の授業の記録が元になっており、教科書みたいなものを書いてみないかとのお誘いで始まった企画です。したがって、一般の人には少し難しすぎたかも。

血液型性格判断を無批判の信じている人、遺伝子組換え作物は邪悪な悪魔の作物で絶対栽培も販売もしてはいけないと信じている人。

Nature誌(2002321日号)に興味深い記事が載っていました。
Biotech remains unloved by the more informed.
というタイトルで、イタリアの一般市民(18才以上)の科学的な知識に対するメディアの影響を調査した結果が報告されています。
それによると、市民をバイオテクノロジーにかんする知識をマスメディアに多く接することで得ているグループと、そうでないグループのふたつグループにわけ、いろいろ調査しています。
たとえば、「only genetically modified tomatoes contain genes while ordinary tomatoes don't」と思っている人がマスメディアから科学知識を得ていないグループでは31%1/3もいます。
これだけでも衝撃的ですが、マスメディアの科学知識に多く接しているグループでも29%の人がそう思うと答えています。
テレビの科学番組や新聞の科学記事が市民の科学的知識の理解にあまり役にたっていないことがわかります。
遺伝子(gene)とはなにかといった基本的なことは、メディアから情報を得ることは難しいことが浮き彫りにされています。

そこで、本書では特に遺伝子の説明にかなりのスペースを割きました。
それでも、ご理解いただけない人もいます。たとえば、

「「遺伝子」が「概念」であり「情報単位」だという説明が弱かった気がする」とか、「「情報」でなく「モノ」「実在物」に読める文が多い」とか。
この方、その後もトンデモ解説が延々と続くので、単にそそっかしいだけだとは思いますが。

この方の誤解は、おそらく遺伝子という言葉の二面性に気がついていないところから来ているのだと思います。

一般的な意味での遺伝子というのは「概念」かも知れませんが、他方で、具体的に実物の遺伝子はあります。
「「モノ」「実在物」に読める文が多い」と感じられたところは、具体的な遺伝子を説明しているからで、遺伝子一般の話をするときは「情報単位」として説明します。

遺伝子などの用語の説明にかんする議論はこの後でもしますが、二面性についてだけもう一度述べると、遺伝子を一般論として述べるときと例えばアルデヒド脱水素酵素遺伝子を述べるときでは説明の仕方が異なります。
アルデヒド脱水素酵素遺伝子は現実にゲノムの中に「実在物」として「モノ」としてDNAという実在の化合物の中に存在します。
もちろん、ヒトゲノムの2万数千の遺伝子というときも、ヒトゲノムの中に2万数千個所に遺伝子が実在します。
PCR
でアルデヒド脱水素酵素遺伝子を増幅すると、その遺伝子は無数のDNA断片として水にとけた状態で存在します。
この場合、空想的な概念ではなく、物質として現に存在します。存在しているモノを説明するわけですから、当然モノとして説明するのになんら支障はありません。
突然変異も遺伝子の中で起こったりするわけですから、実在のモノでなければ変異しようがありません。
変異は空想的な概念に起こるのではなく、DNAという実在の分子の遺伝子の部分に起こります。

別の方が、「DNAは分子のかたまり。遺伝子の部分の分子や、そうでない部分の分子の総体」と書いた人もいます。
この場合、3度出てくる「分子」の使い方がすべておかしいですね。
「分子のかたまり」って何のことかわかりません。
1
本の染色体の中にはDNA分子は1個だけ含まれています。その1個の分子の中に遺伝子の部分や遺伝子でない部分が交互に存在しています。

DNAは物質的な側面が強く、ゲノムは情報的な側面が強い」とも書いています。

これも誤解ですね。
DNA
は物質そのものです。「物質的な側面が強」いのではなく、物質です。化合物です。現実に存在する化学式で表すことができる分子です。

ついでに、ここで取りあげた方が、情報や概念とモノや実在物の説明にCDと音楽を用いて説明しておられます。
この手のアナロジーは一番わかりにくい話になってしまいます。じっさい、この方の説明、さっぱり何が言いたいのかわかりません。
アナロジーを使うと、かえって混乱させるだけなので、先の「方針」でも述べたように、遺伝子やDNAやゲノムの説明にアナロジーを使うのを避けることにしました。
アナロジーを使うと、じっさい、誤解の元になりますし、また、アナロジーを使う人自身が誤解しているとますますわからなくなってしまいます。

具体的に物質レベルで解明されているのなら、それを素直に説明すればいいだけで、アナロジーを多用してしまいますと、どんどん理解から遠ざかってしまいます。

    1. 「遺伝子組換え食品は安全だ!」?

どうやら、このような本を書く人は、「遺伝子組換え食品は安全だということを主張する人」だと思われているらしい。

しかし、よく読んでいただければわかることですが、私は遺伝子組換え食品が安全であるとの主張は全くしていません。

おそらく、遺伝子組換え食品を嫌ったり胡散臭いと思ったりしている人にとって、遺伝子組換え食品を科学的に語る場合であっても、そのような人は「推進派」であり「擁護派」であって、「安全だ」と主張したがる人だとの思いこみがあるのだと思います。
その思いこみがあるからこそ、本書は「遺伝子組換え食品が安全だ」と主張する本だと思われているのでしょう。

最後のコラムに「RNA新大陸発見」の話題を書きました。その中で、遺伝子組換え作物を作るときの問題点について述べています。これを読んで、「遺伝子組換え食品は安全だ」といっている著者が危険性について述べるのは一貫性がなく矛盾しているとの意見を持つ人がいます。確かにこのような思いこみをしている人にとっては、その人の中で一貫しているのでしょうが、いかんせん、思い違いです。

本書では、検証なしに、単にマスコミ等の論調に乗っかった議論をするのではなく、より科学的に検証しようと試みています。

遺伝子組換え食品は「危険」か「安全」かどちらかひとつを選べ、と無理な質問があれば、迷わず「危険」を選びます。先の思いこみのひどい人から、ヘンな言い訳するなといわれそうですが、別に遺伝子組換え食品にかぎらず、普通に食べている野菜や果物も「危険」を選びます。無農薬栽培の野菜でも天然の自然の食材であっても、すべて「危険」ですし、水だって「危険」です。食べ物に限らず、建物や電化製品など人のつくったものも「危険」を選びます。この世に「安全」などないからです。

問題はその危険性の度合いです。あるいはリスクといってもいいかもしれません。
安全性を議論するのであれば、どんな場合でも絶対的な安全はないわけですから、どの程度の危険性があるのか、同類のものと比べてどの程度危険性に違いがあるのかを議論するしかありません。
したがって、遺伝子組換え食品だけ単品でをとりあげて、「危険」か「安全」かを議論しても無意味です。

これを議論するためには、たとえば遺伝子組換え食品が話題になるのなら、遺伝子組換え食品はどのようにして作るのか、普段食べている野菜と比べてなにが違うのか、同じなのか、そもそも遺伝子とは何なのか、あるいは遺伝子の説明で必ず出てくるゲノムやDNAや染色体といった言葉の意味は何なのか、そもそも遺伝という現象は何なのか、どうやって遺伝子はつたえられているのか、究極には生命ってそもそも何なのか、こういった話題について一通りの共通理解がないと議論が始まりません。

そこで、本書では、これらの話題を、とりあえず議論の入口に立てる程度の説明をすることに努めました。

    1. 科学的とは?

このような入門向けの小書で科学論を議論するとは思わなかったのですが、気になる意見もありますので少し科学に対する考え述べます。

科学という分野はただひたすら説明することしかできないと考えています。
その説明も、ある前提条件の範囲内でという、限定付きです。

p22に「定義できなくても説明するのが科学なのですから」と書きました。実はこの後に「科学では真理はあきらかにできません」という文章が続いていたのですが、一般の人は「科学は真理を追究する学問だ」と思っているでしょうからこの記述は本当だろうけど、余計な混乱の元だということでカットしました。したがって、p22の文章は唐突感があります。

しかし、これは私だけの考えではなく、どの科学者も科学によって真理が究明できるなどとは考えていないと思います。ただひたすら観察し実験し考察し、多くの「事実(実際に起こっている事)」を集めるだけで、それらをただひたすら説明するのが科学だと思っています。

科学的な考え方・手法というのは、なにも科学者だけのものではありません。ある事例に対し、可能性のあることがらを可能な限り考え、可能な限り検証し、あるいは条件付きで検証し、評価や解釈を施し、ある一定の解決を得る、そういう手順は科学者に限らず広く一般に用いられている手法でしょう。

科学とは何か?という問の答はたくさんあります。
ひとつ単純な答として、科学とは疑うことである、ともいえます。
先ほども述べたように、ある事例に対し仮説を立て、実験し、あるいは観察し、考察という解釈を施す。そのすべての過程で、その事例が特殊な例なのか、一般化できるのか、実験や観察に実験者や観察者のバイアスがかかっていないか、他の解釈はできないのか、解釈に思いこみや政治的な意図がないのか、いろいろ疑います。
多くの場合、仮説を立てる段階で科学者の考え方が組み込まれています。それは信念であったり信条であったり、あるいは政治的な立場であったり、それぞれ意図的であったり無意識であったりします。観測や実験計画、観測結果や実験結果の解釈、考察の段階でも科学者の信念、信条、政治的意図が関与します。実際、これらを全く排除し、まったくの客観性を保つことは難しい。
だからこそ、冒頭の、科学とは疑うことになります。

科学は真理を究明できなません。科学的に絶対というのはありません。
すべての科学的事象は疑うことができます。反証することができます。逆にいうと、反証できないのは科学ではありません。あらゆる理論は絶対ではなく、いつかくつがえることもあり得ます。多数派の意見だからといって、権威ある人が唱える説だからといって、妄信することはないし、つねに疑う目は持ち続けなければなりません。

p30に「生物は生物から誕生し、新しい種も「進化」により誕生したことは今や理論ではなく事実です」という文章にくってかかる人がいます。
どうやら事実という言葉の使い方の問題のようです。

生物から生物が誕生すること、それは「進化」と呼ばれる変化によって起こること、こういった基本的な考え方があり、ゲノム、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボロームといった包括的で網羅的な分子生物学関連の研究成果による理解、あるいは多くの観察結果などから、これらは「事実」(実際に起こっている事)としてある。もちろん、我々の地球上で起こっている事に限って、であるとか、いろいろな前提条件の中での話として。 少なくとも、すべての種は神様がお創りになったとか、あるいは種は固定的で変化しないとか、そういった考え方をしなくても、説明できるということです。

「事実」という用語は、例えば「真理」という言葉とは全く別の意味で使っています。
ただ、誤解があってはいけないのでもう少し説明しますと、事実だといっているのは、ある種が変化して別の種ができた、無から突如神様がお創りになったり、無から突如ある生物が誕生したりとか、そういうことではなくて、ある生物種が別の生物種に変化したという点だけです。

この変化の仕組み、メカニズムにかんしては多くの理論があり、どれが正しいのかわかりません。
進化がどのように起こるのかという点にかんしては、多くの観察、実験結果からある程度の説明体系はできていますが、決定版というのはありません。ダーウィンの考えた進化論が絶対的に正しいとかダーウィンの進化論が事実であるとかいっているわけではありません。
このちがいはとても重要です。

    1. 「安全」と「科学」

遺伝子組換え作物を農薬栽培した野菜と無農薬栽培を何年も続けている野菜とどちらを選びますか。

あるいは、1年だけ無農薬栽培した野菜、新品種の野菜、野性の天然の植物など、安全性のランクをつけるとしたらどのような順番にしますか?

多くの人は、遺伝子組換え作物であれば、農薬栽培であろうと無農薬栽培であろうと、あるいは化学肥料を使っていなかろうと、無条件に危険な野菜だと判断するのではないでしょうか。
反対に、無農薬栽培を何年も続けている野菜であれば、これまた無条件に安全だと思って安心して食べるのではないでしょうか。

私が一番危険性が高いのを選ぶとすると、天然の自然の食材を迷わず選びます。その次に危険性が高いのは無農薬栽培を何年も続けて栽培されている野菜です。その年だけ無農薬栽培したもの、新品種の野菜がこれに続き、普通の農薬栽培野菜や遺伝子組換え作物の農薬栽培は、この中では一番リスクが小さいと考えます。

つまり、一般に思われている、無条件に安全・危険と判断されている判定は、全く逆になります。大急ぎで補足しておきますが、最後にあげた野菜が安全だと言っているわけではありません。先の議論の繰り返しになりますが、安全か危険かの二者択一しかないのであれば、全部危険に分類されるので、安全と判定するものはありません。

このリスクの順番に納得いかない人が多いと思います。
なぜこの順番なのか、無農薬野菜がなぜ農薬栽培した遺伝子組換え作物よりリスクが大きいのか、その答はp153の図の下にあります。これを説明した文章はあえて書いていません。
書いてもよかったのですが、無農薬野菜を生で食べるのが一番いいと信じている人にとっては、この話は刺激が強すぎますし、また、これを説明するためには、植物の生体防御機構など基本的な説明にかなりのページを割かないと誤解が生じると思ったからです。
植物は動けないのになぜ生きていけるのか?温度、塩、風などの物理的環境だけでなく、微生物、昆虫、動物などの外敵からどのように守っているのか?それらを知る必要があるからです。

野菜などの苦みなどの成分はほとんど毒物です。成長期の抵抗力の弱い子供が臭いや味など刺激の強い野菜を嫌うのは実は非常に理にかなった本能的行動です。進化の過程で獲得したヒトが生きていく上で重要な適応(進化学の用語)です。
せっかく獲得した適応なので、上手に付き合う必要があります。
大人は細胞の増殖も鈍っていますし(毒物は細胞増殖の早いものにほど効果的)ある程度の抵抗力も持っています。

一般に、農薬などのメーカや研究者は農薬や遺伝子組換え作物の安全性について述べる機会が多いわけですが、それを聞く方の判断は、メーカや研究者は一所懸命に安全であると言っているように受け止められることがあります。
しかし、先ほどから述べているように、農薬にしろ、遺伝子組換え作物にしろ、まして、天然自然のものであろうと、無農薬栽培の野菜であろうと、客観的に科学的に判断してから述べるときは、「○○が安全だ」ということはしません。
どの程度のリスクがあるかはわかっているわけですから、「安全だ」とは決して言いません。何か問題があったときに「安全宣言」がでたと報道されることがありますが、この場合も「 」つきの宣言であって、決して文字通りの安全宣言をしているわけではありません。マスコミが報道するときも、「 」付きで報道します。不二家の「安全宣言」も同様です。

メーカ寄りの研究者は安全であることを強調するばかりで信用できない。と言う意見もよく聞きます。そういう研究者も中にはいるかも知れませんが、しかし、よく読んでみれば、安全だなどとはひと言もいっていないことがほとんどではないでしょうか。

それを説明する言い回しを象徴している台詞があります。
高速道路によく乗る人やラジオをよく聞く人にとってはおなじみの台詞です。

例えば、高速道路の場合、
こちらは○○です。午後△時現在の道路交通情報をお知らせします。この付近では上下線とも交通に支障となる事故や渋滞の情報は入っていません。

何げなく聞いていると当たり前の台詞ですが、いたって科学的です。
科学には絶対がなく、条件付きの説明に過ぎない、ということの説明に適した台詞です。

まず、時間を限っています。この場合は午後△時現在の情報という条件付きです。
次に場所を限っています。この付近ではという条件です。曖昧な表現ですが、走っている道路の付近というのはわかります。
次に状態を限っています。交通に支障となる事故や渋滞、という条件です。それ以外の状態があったとしても関知しません。
最後に情報は入っていません。という条件があります。決して事故や渋滞はありません、とは言いません。もしかしたら、この道路情報を伝えている間に事故や渋滞が発生しているかも知れません。あるいは、この時間までに事故や渋滞が発生しているけど、単にその情報を受けていないだけかも知れません。

この短い文章の中にも慎重に条件設定をしてから条件付きの情報を提供しています。これが科学的な態度ともいえます。

遺伝子組換え作物は危険だ、食品添加物のアミノ酸は危険だ、と言い切るのは、高速道路に事故や渋滞はありません、と言い切るのとよく似ています。

科学は条件付きの説明・語りだというのはこの例のようなものだと思って間違いありません。

    1. 科学的な説明とは

テレビの情報番組(実は娯楽番組)では「○○は△△だ」と言い切ってくれるのがほとんどでしょう。答はひとつの場合がほとんどでしょう。
でも、実際の科学では、無条件で言い切ることはできません。条件付きで説明するわけですから、その説明の仕方も千差万別です。ひとつだけの答、という事例は、実際にはありません。

先に科学用語の定義について少しふれました。実は、すべての科学用語は厳密に定義することは不可能だと思っています。遺伝子も同様です。

定義できないのだから何を言ってもいいといっているわけではありません。説明できるレベルで最良の説明をするべきです。
遺伝子について、自分で考えるだけなら、自分がわかる範囲で、ただひたすら考え、説明文を作ればいいだけです。
本書のように誰かに説明するとなると事情は異なります。説明する相手がいるわけですから、その相手に合わせる必要があります。

たとえば、遺伝子とは○○だ。という説明をするとき、いろんな条件がつきます。
遺伝子の説明をいろいろな条件でしたのですが、これを読んだ人が、遺伝子の説明にブレがある、著者自身が揺れ動いた説明をしているのだから、その説明は信用できない。それを元に遺伝子組換えを説明しているのだから、ますます信用できない。だから、やっぱり遺伝子組換えは危険なんだ。あるいは、何か隠そうという企みがあって、カメレオンみたいにいろいろ代わる説明をすることで、たぶらかそうとしているのではないか、と穿った見方をする人までいるかもしれません。
実際、Webで遺伝子組換え作物に反対している人たちの主張によく似たものがいくらでも見つかります。
でも、これらはすべて誤解です。

たとえば、100人の遺伝子を研究している研究者がいれば、遺伝子とは何かという説明は、100人とも異なるものになるでしょう。それぞれが考えている遺伝子像を語ることになります。
どれかひとつだけが正解というのではなく、またひとつだけの定義があるというわけでもありません。テレビのように遺伝子とは○○だ、と単純にひとつの答を語ることはできません。

また、ひとりの研究者でも、遺伝子とは何かという語り口は異なることになります。
たとえば、語る場合は当然相手がいるわけで、その相手に応じて説明は変わります。相手の反応に応じても、語り口は変わっていきます。もちろん、語る方の知識の幅や量により、語る内容にも限界はあります。語る側が受ける側から学び取り、さらに発展した語りになることもあるでしょう。

遺伝子とは何かを小学生に語るときはその小学生がわかるように説明する必要があります。
すでに反証されてしまったことであっても、わかりやすくするために、時にはアナロジーを使って、たとえ話も交えて語ることになるでしょう。
中学生、高校生とあがるにしたがって、周辺の知識に応じた語り口に変わっていきます。高校生レベルであっても、やはり、反証されてしまったことを本当であるように語らないといけないこともあることでしょう。

同じようなことが、一冊の本の中でもいえます。
いきなり最先端のことは説明できません。最初に簡単な説明を語り、外堀を埋める説明が加わるごとに語り口を変えていきます。
外堀を埋めていきながら、その時点のレベルにあった説明をします。これを繰り返すことになります。
当然、その本の想定読者に応じて、という条件付きで語るわけです。
最後には、外堀の話ばかりではおもしろくありませんから、サービスとして、想定読者以上のレベルの話も説明することもあるでしょう。
したがって、一冊の本の中であれば、たとえば、遺伝子とは何かという説明の仕方は、序章、第1章、第2章と埋まった外堀に合わせて説明の仕方が変わっていきます。
その本の想定している読者に合わせて説明するしかないわけで、本書の場合、遺伝子の理解の1%も語っていません。理解されている事柄のうちほんの僅かな入門の範囲であれこれ表現を変えているにすぎません。
もちろん、私の理解している範囲も限られています。先端の理解から比べて私の理解力もたかが知れています。そのなかで、本書のレベルに合わせた範囲内に限って説明するだけです。
授業であれば、回が進むごとに説明の仕方も変わっていきます。どこまで行くかは、ターゲットによりますし、もちろん説明する本人の理解力にもよります。

また、いろいろな語り口があるということは、その分野が遅れていて、まだまだわからないことが多いので不安定な科学分野だ、と思う人もいるかも知れません。
しかし、逆に、いろいろな語り口があるということはその分野が活発に研究されている証拠でもあるともいえます。

このような話をして、説明のブレをごまかそうとしているわけではありません。同じことを同じ語り口で繰り返すのなら、あまり意味はありません。より発展的に繰り返し語るのであれば、その語り口が異なるのは当然でしょう。
共通の理解から大きくはずれる説明や単なる誤解などは許されないでしょう。
そうでない範囲で、説明にバリエーションがあるのはむしろ当然ではないでしょうか。

これらはこう説明してしまうと、当たり前のことですよね。
こんな当たり前のことをわざわざ説明してくれなくてもよい、という人もいるでしょう。当然ですね。
でも、なかには先にあげた人のように、説明がぶれることで信用をなくす人もいるわけで、あるいは、この手の人が意外と多いのかも知れません。

    1. 小中高の理科・科学

高等学校までの教育の弊害としていろいろいわれていますが、一番大きいのは、ひとつの正解を追い求めすぎることだと思います。
どんな問題にも正解があってそれはひとつしかないと。

もちろんそんな単純ではないでしょうが、たとえば、先にふれたように、遺伝子についてこれで正解という究極の説明を欲している人がいます。ごちゃごちゃ言わずにはっきり言えと。しかし、このような単純な正解などないわけですから、語る人にも語る場でも、説明の仕方は大きく変わります。

捏造が発覚した「あるある大事典」などのテレビの娯楽番組でも、ひとつの答をはっきり言ってくれる。これが受けるのでしょうが、またこの単純さに騙されてしまいます。

一方で、高等学校までで習う理科ははっきり言って古典科学です。
理科の教科書を見ればわかりますが、教科書の多くのページを遠い過去の説の説明に割いています。つまり、科学史が書いてあるわけです。
最新の知見が書いてあるように見えるところも僅かにありますが、それも「書いてるように見える」だけで、実際には古い説が書いてあります。

教科書のほぼ全部の記述は古典科学なわけですから、いずれも反証されています。
反証されているのを教えることがいけないとか無意味であるとか言いたくてこんなことをいっているわけではありません。小学生、中学生、高校生にとってそれぞれのレベルで説明できる方法で説明するしかないわけで、例えその説明は先端科学から見れば反証済みの古典科学でもいいわけです。
理解できる範囲でデフォルメし、たとえ話も入れ、単純化もするわけです。
教科書の記述とは、結局このように反証済みのことをもっともらしく書かれたものといえます。

試験にしても、採点しなければならないし、入学試験であればふるい落としもしないといけないわけですから、ある程度の正解も作らないといけません。でも、その正解が唯一無二の絶対的な正解であることは不可能ですし、その必要もありませんから、暫定的な正解を作るわけです。それぞれのレベルに合わせて、これでいいと言って教えたり問題を作ったりするしかありません。

大学教育でも大学院教育でも、極端な話、それぞれの教育を始める前にそれまでの教育をひっくり返すことから始まるわけです。
とりあえず、これまで習ったことは全部反証されているから忘れて!これからいうことを学んで!という感じで。
ですから、教育のレベルによって、すでに反証されていることを学ぶわけですが、別のレベルではその反証を学び、別の説明を学ぶわけです。

で、これがどこまで続くかといえば、もちろん終着駅も正解もありません。科学である限り、続く作業です。
最先端の専門書であっても、それが出版された時点で古くなり、古典になるでしょう。
万一究極の真理が発見されたときには、それは反証不可能ですから、当然その時に科学は終わりますし、科学者はみな失業します。
そのようなことがいつ訪れるのか想像もつきませんし、訪れるかも知れないと考えることすら難しいです。

誤解されてはいけないので付け足しておきますが、だから、科学が無能といっているわけではありません。絶対的な真理を究明することに関しては無力であることは確かです。しかし、無能ではありません。とことんよりよい説明をする努力は可能です。
有史以来続いている思索や観察や実験などにより、あれこれもまれながらも、より確からしい説明が残っていきます。これを説明するのが科学です。

ニセ科学は、このより確からしい説明を無視します。科学的に解明できないことはいくらでもある、科学で全否定できないことがいくらでもある、過去に定説だと思っていたものが完全に覆ったことがある(地動説とか)、過去にとんでもない説だと無視されていたのが後に定説になった説がある、だから、といって、多くの飛躍した説がはびこることになります。これがニセ科学です。

もちろん、現在ニセ科学といわれているもののなかには科学に昇格するものもあるでしょう。これは否定しません。いや、これを否定すること自体、非科学的です。しかし、クーンの言うところの」「パラダイムの転換」はそう何度も頻繁に起こるものではないでしょう。

    1. 買ってはいけないの誤解−純粋真っ直ぐ君

p56に「買ってはいけない」と題して「危険な化学物質」としての水を話題にしました。
「水」も化学物質で、化学物質嫌いの人が「買ってはいけない」調で「水」を取りあげるとするなら、こんな風になるのでは?と思って、その後の説明にもためになりそうなことを書きました。

ところが、「皮肉って」と断って書いたこのような文章でも、真に受ける人がいます。ちょっと説明不足だったかなと思います。実際にはもう半ページ分ぐらいの説明がありましたが、文字数の関係で、カットしました。「買ってはいけない」のタイトルだけで理解していただけるかなと思ったものですから。

ここに毒物としての「水」を取りあげたのは、自然にある化学物質は問題なく、自然になかった化学物質は危険だとの認識も、あらためて欲しいという意図もあります。
この方は自然になかった化学物質をたくさん取り込んでいて、その影響にだけが子孫に負の遺産にならないかと怖れています。

また、「品種改良も遺伝子組換えなら、私たちはかなり以前から怪しげな食品を口にしていることになる」と感じられる皮肉った記述は「私たちをかえって混乱させているようにも思えます」とも述べておられます。

いえいえい。これは皮肉でもなんでもなく、本書で繰り返し繰り返し述べているように、現実です。「水」は皮肉ですけど、品種改良の話は現実です。
怪しげなものを日々食べている現実から目をそらさないで、無条件で安全だと思わないで、無条件で白黒つけないで、考えて欲しかったからこそ一般の品種改良と遺伝子組換え技術を比べながら説明しています。
通常食べている野菜が絶対安全だと思っている人にとっては受け入れがたいことなのかも知れませんが、キャベツやブロッコリーやカリフラワーやケールなどがどのようにして作られたのか、どのように遺伝子が変化してできたのか、現実を知ることが大切です。

ついでに、いくつかの用語に誤認があります。
科学や技術の発達により、「自己免疫力を高めるための要素を捨ててしまっている」と述べられています。
自己免疫の使い方が変ですよ。免疫力だとしても同様に変ですよ。自己免疫が高まったら、生きていけませんよ。

さらに、「蛋白質までにしか触れていなく、細胞の役割を担う糖鎖については一切触れていない」とケチをつけていますが、本書は生化学の教科書ではありませんし、そもそも、実質100ページしかない小書に糖質の説明をどうやって入れればいいのでしょうか?
本書の方針は遺伝子の理解がメインです。その理解に糖質を含めるとタダでさえ理解しがたい遺伝子の説明がおろそかになってしまいます。
そもそも、なぜ糖質でなく糖鎖なの?

「血液型の項目でも同様で糖鎖の配列についても触れていません」とまたケチをつけています。
「糖鎖の配列」って?血液型の説明になぜ「糖鎖の配列」が必要なのでしょうか?
本書で、H抗原について述べています。これがA抗原、B抗原になる仕組みを遺伝子、酵素、付加する単糖の構造式のレベルで説明しています。
確かに、この説明の中に、「糖鎖の配列」は一切でてきません。
でも、なぜ「糖鎖の配列」がこの説明の中に必要なのかさっぱりわかりません。
この方、もしかしたらH抗原の構造に触れていないのを「残念に思っているの」かも知れません。確かにH抗原には糖鎖がついています。しかし、H抗原はすべての人が持っています。したがって、H抗原は血液型の多型とは本質的に関係ありません。
血液型にとって重要なのは、このH抗原に付加する「単糖」の「種類」と「有無」だけです。A抗体やB抗体が認識するのもこの違う単糖の部分です。 本書では該当する2種類の単糖の構造式まで示して説明しています。

ということで、この方には確かに糖質の説明が必要なようです。

    1. 血液型の話題

血液型性格判断を信仰している方にも本書の副題が検索に引っかかって読んでいただいけたようです。

最初に言い訳しておきますと、血液型性格判断に対するコラム(pp114-115)は、最初は写真入りでさらに1ページ以上長いものでした。しかし、本書のレイアウトと総ページ数の関係上、大幅にカットとなり、次ページp116に大きな(かなりモッタイナイ)余白があるのはその編集の名残です。ですから、書き足りない点、唐突に切り替わっている点など残っています。

本書の目標は、遺伝子やゲノムの知識から血液型の理解を得ようというものです。
したがって、具体的な血液型を決定している遺伝子、その遺伝子産物である酵素の働き、その結果つくられる抗原の種類などを説明しています。
また、この遺伝子のゲノムに対する位置づけも理解できるように説明したつもりです。その辺の事情はp178にも書いているとおりで、ゲノムの理解なくして単一の遺伝子だけ、その遺伝子産物だけ取り出して、性格や気質のような複雑な表現型を議論しても仕方がないと述べています。
さらに、p115のコラムでは、科学論にも少し触れ、頭ごなしな肯定も否定も戒めています。

「能見さんについては『能見の集めた膨大なデータはとても「統計」とはいえず、その解析に科学性はありませんでした』と述べています。また、「血液型と気質の関与は今のところ科学的な根拠が見つかっていません」ともあります。「科学的」の説明がないのでなんともいえませんが、全体の文脈からすると、統計的な根拠があれば「科学的」だとも読めます」と書かれた方がおられます。

ちょっと違います。
能見氏の「科学」とその後の「血液型と気質の関与」の「科学」は全く別物です。 統計の話は能見氏の著作だけで、気質の関与は統計学も含まれますが、それ以外のこの本の主題である分子生物学などあらゆる分野の「科学」です。
ですので、「否定論者のデータも全否定でないとおかしくなります」以下の記述は、全くの誤認です。

まず、能見氏の話ですが、これは著作を発表順に読んでいくだけで、そもそも統計的に変だとのことが簡単にわかります。
最初の本の「血液型でわかる相性」(私が持っているのは1976年の160刷です)にはデータが全く載っていません。ですので、統計云々以前の問題です。
その次の「血液型人間学」(私が持っているのは1974年の39刷です)にデータらしいのは載っていますが、あまりにも少なすぎます。しかも、本書で指摘したように読者のアンケート調査がメインです。母集団が偏りすぎています。
その後の「血液型愛情学」(初版、以降もほとんど初版を所蔵)以降で、データは増えていくのですが、いかんせん、母集団の少なさ、意図的な選択、それに対する強引な解釈が延々と続くだけです。

多くの人が指摘しているとおり(能見氏は否定していますが)、能見説は古川説の焼き写しなのは間違いありません。
その説にあうデータだけを選択し、あるいは合うように解釈していると思われるデータが随所に見られます。

ある人の血液型は簡単に調べられますが、そもそもある人の性格や気質をどのような方法で調べることができるのでしょうか?気質は調べることは難しいでしょうし、性格は変化しますから、これまた特定するのは至難の業です。にもかかわらず、人類をなぜか4分類できてしまいます。

そもそも、最初にまず4分類が確定しています。その分類に属すると思われる気質が決められています。その内容はかなり曖昧で、ダブっていたり矛盾したりしていてもあまり考慮されていません。
人の性格には二面性があります。変化もします。4分類に合わない性格があれば合う性格もあります。そのとき、合う性格だけ解釈し合わない性格は無視すれば、「当たっている」ことになります。
最初から「正解」があるわけですから、その「正解」に合うものだけ取捨選択していけば、無敵の分類ができるのは当然です。

最初から答があるもの、どのようにでも解釈でき、最初に決めたカテゴリーに必ず分類できるような理論は科学ではありません。
ちょうど、フロイトの夢判断を利用した心理学と同じです。
両者とも、最初から答があるわけですから、とうぜん当たりになります。外れはありません。

このように、最初から答がある理論は、ポパー流にいうなら反証不可能ですから、科学ではないことになります。 血液型を決定している遺伝子と気質や性格との関係があまりにも飛躍しすぎています。なかには血液型と病気になりやすさと関連性があるとの説から性格との関連を解釈する方法もあります。これも飛躍がひどすぎます。

地球温暖化問題で、例えば空気中の炭酸ガスは毎年上昇している、というのと、海面が上昇している、というふたつに関連性があると信じられています。その間がいかに飛躍していようと、なぜか多くの人は信じています。この話から導かれる未来の予測まで多くの人は簡単に信じてしまいます。

たとえば、地球の平均気温は毎年上昇している、というのと、私は毎年確実にひとつ年を重ねている、というのに、どちらも右肩上がりで相関がある、したがって、地球の平均気温の上昇は私が毎年年を取るからである、という仮説をたてることも可能です。
来年、わたしは、おそらくひとつ年を重ねるであろうことは容易に予測できます。したがって、来年も平均気温が上昇するであろうと予測することもできます。
あるいは、人間は必ず死ぬ、私も人間である。したがって、いずれ年を重ねることはストップする。それはいつになるかわからないが、平均寿命から考えてある程度予測できる。そして、因果関係からその時が来れば、地球の温暖化はストップするであろうと予測できます。
あるいは、そうであるなら、地球が温暖化するのが諸悪の根源であるなら、温暖化を止めればいいわけで、その原因はわかっており、その対策もわかっているわけであるから、早急にとるべき対策はひとつにしぼられ、それは非常に有効な手段であることも容易にその理論から導くことができます。

こういう話なら、おかしいぞというのは簡単に見抜けるでしょう。いや、それでもこれを論破して論理の破綻を指摘するのはもしかしたらそう簡単ではないかも知れません。

 

私は著書で、「血液型と気質との関与は今のところ科学的な根拠が見つかっていません」。「もちろん科学は非力です。万能ではありません。「血液型と性格とは何ら関係ない」という命題は、科学では完璧に証明することはできません。科学ですべてを否定することはできないからです。したがって、調べられる限り調べ、その結果、血液型と性格との関連性を肯定する結果は得られていない、としかいえません」と書いています。この考え方は、先の科学論の通りです。

この辺の事情は全く引用されていませんが、この方の論調(たとえば毎日新聞の特集記事「科学と非科学3」などに対する反論)を見ると「「血液型と性格とは何ら関係ない」という命題は、科学では完璧に証明することはできません」というところを、完璧に誤解しています。
どんな科学者でも決して「血液型と性格とは全く関係がない」といいません。それは当然です。
ところがこの方はこの論調を持って、「否定論者が全面敗北を認めた」となってしまうのです。そして、なぜかこのような考え方は肯定論者なのだそうです

つまり、血液型と性格との関係を全面的に否定する人が否定論者で、否定することは科学的にできないという人、あるいは明確に否定しない人は肯定論者だそうです。なんか変ですよね。

この論でいくと、私は肯定論者になってしまいますが、いかんせん、その前に能見説の統計にケチをつけていますので、能見氏の信望者から見れば私は否定論者になるのでしょう。否定論者だと見られている証拠のひとつに、次に引用する冒頭が「意外なところでは」から始まっているからです。

「意外なところでは、松岡さんの『ブラッドタイプ』についてにいてですが、骨髄移植の誤解しているようだと批判しています」として、私の骨髄移植と血液型の変化にかんする記述が引用されています。
引用していただけるのは大変光栄なことなんですが、この場合、ちょっと行き違いがあります。

これを引用していただいた方は松岡氏の小説「ブラッドタイプ」を徹底的に糾弾しておられます。
私は逆に「ブラッドタイプ」を好意的に取りあげています。小説の結末には大変満足しています。
私はこの小説からふたつの話題、誤解の例、を取りあげました。その取りあげ方が曖昧だったので、ズレが生じたようです。
誤解の例を取りあげたのは、小説を書いた松岡氏が誤解しているとして話題にしたのではなく、登場人物の「患者」が誤解している、として取りあげました。
「この患者、もう一つ誤解しています」と書いたのですが、わかりにくかったですね。

私は松岡氏が誤解しているとは思っていません。松岡氏はわかっていて、誤解している患者を描いていると、私は解釈しています。
登場人物の患者が誤解しているだけで、作家の松岡氏自身の解釈はきわめて正確だと読み取りました。あくまでも小説の中の登場人物が誤解をするキャラクターとして登場するのだけだと。

したがって、ご指摘のような「骨髄移植の誤解しているようだと批判」など、私はしていません。
私が「ブラッドタイプ」を批判しているのなら、ご指摘の通り「意外なところでは」になるでしょうが、残念ながら、私は松岡氏の「ブラッドタイプ」を高く評価しています。

    1. 植物の生体防御機構と無農薬栽培

「安全」と「科学」でとりあげた無農薬栽培した野菜について、少し補足します。

遺伝子組換え作物の対極として、有機農法が盛んに宣伝されています。
世界の食料事情を考えると、この農法が本当に理想なのかどうか、ちょっと考えて見ましょう。

野菜を有機農法や無農薬農法により効率よく栽培するのは大変難しい。
通常農法では種子の段階で農薬により殺菌処理してから栽培を始めることが多く、この時点で農薬を使わなければ感染した種子から栽培を始めることになります。
農薬を使わない種子を使うと、収穫量は当然激減しますし、労力も増えコストも高くなります。
栽培中にも昆虫や寄生虫、ウイルスなどに感染しやすくなります。
サラダとして生食もできなくなります。

植物はその生育場所から動けないため、さまざまなストレスに対して、動けないなりに防御機構を発達させています。
植物の茎や葉を食べる昆虫類に対しても防御機構があり、おもに昆虫類を殺す殺虫毒素を作ることで対応しています。
このような毒素は昆虫だけでなく、動物一般に害になることが多い。

これらの防御物質は、通常の植物には必要ないため、ストレス時にのみ作るような機構も発達させています。
たとえば、昆虫に食べられたとき、このキズストレスを認識し、殺虫毒素に変換します。
サラダなどを生食したときに感じる苦みはこの新たに作られた毒素のせいです。

ワサビの辛い成分は抗菌作用を持っています。この物質は人にとっても有害です。
この成分は普段のワサビにとっては不必要なものなので、普段は持っていません。
キズストレスが起きたとき、つまり、ワサビを摺り下ろしたとき、ワサビの細胞内に蓄えられていた化合物が反応し、辛みのある有害抗菌成分に変化します。

野菜類の品種は、人にも影響のあるこの防御物質(毒素)を減らす方向に改変されました。
その結果、野菜類の作る防御物質が減り、人が生食するには有効ですが、当然、植物自身が防御毒素をつくる量を減らしたため、害虫などに感染しやすい品種にもなりました。
そのため、感染源を殺すため農薬が使われます。

このときの農薬は感染源には有効ですが、人には有害でないもの、植物が本来持っている毒素と比べても比較的安全性の高い農薬が使われます。

有機農法や無農薬農法が危険なのは、農薬を使わないのため、感染しにくい品種に改変する工夫が必要になります。
つまり、今まで行ってきた品種改良を逆行させ、野生化の方向に改変(改悪)することになります。
意識していようと、していなかろうと、天敵に強い品種を人為的に選択することで、天敵に強い品種が選ばれます。
そのため、これらの改変により、せっかく減らしていた危険物質が増えることになります(改悪になる)。

植物は昆虫には有効だが人には無効といった都合のいい毒素は作ってくれません。

逆に人は昆虫には有効だが人には無効といった都合のいい化学物質を作る能力を持っています。
それが現在の先進国などで使われている農薬です。

有機農法や無農薬農法とは、コストをかけて、収穫の労力を増やして、収穫量を減らして、種々の微生物に感染させて、危険な毒素を多くする農法のことです。

30年ぐらい前までサラダを生食する習慣はありませんでした。
生食することを知らなかったわけではなく、当時の農法で収穫された野菜は生食に耐えられなかったからです。
なぜ今多くの野菜が生食できるのか、その理由を考えれば、理想的な農法がなにかおのずと答えは出るのではないでしょうか。


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『ブラッドタイプ』はウソでした!?


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