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1993年度NHK大河ドラマ「琉球の風:〜美海紀行〜」のテーマ・ソ
ング「ちゅらぢゅら」で、おそらくは多くの人の知るところとなっている
りんけんバンド、そのアルバム『アジマァ』の中には多くの魅力的な歌が
収められている。ここでは、その魅力的な曲の数々の中から、とりわけ印
象的な曲の一つ、「春でぇむん」を取り上げて考察を加えてみたい。
「春でぇむん」の歌詞は以下の通りである。
ここには、春のさわやかさと美しさ、そして春を迎える喜びが歌われ
ている、と先ずは言っておくことが出来るであろう。歌詞の大意は、ア
ルバムに付けられた日本語訳を参考に意訳を試みると、およそ次のよう
なことになるであろう。
風がそよそよと吹いていい気持ちだ。肌にも清らかな風が吹いてきて
、爽やかな気持ちがする。波の音も、風の声も、爽やかで、春の息吹を
ここに運んでくれる。何といっても春なのだから……。
そして香り立つ春の花々、ウグイスの鳴き声「「。その心地の
よさ……。
そして野山もまた、初々しい緑の色のすがしさを現わし、春の素晴ら
しさを表現している。何といっても春なのだから。「「 春なのだから
野山のみどりも、色を春のさわやかな色に改めるのだ……。
私はこう意訳してみたいのだが、こうした意訳は不可避的に多少の言
い過ぎを含むことになるであろう。というのも、この歌の歌詞において
は、見事なまでに的確な省略的表現が採られており、意訳はその省略を
多少とも補って言葉を結び付けなければならないからである。歌詞のこ
の省略的で簡潔な表現には、しかしある仕組みが備わっているであろう
。それはどのような仕組みなのだろうか?
その表現の仕組みは、およそ次のようなことであろう。先ず気付かれ
るのは、歌詞が三つの系列の言葉から構成されているということである
。第一の系列は、「風ぬソイソイ」「肌むちぢゅらさ」「波ぬ音」「風
ぬ声」「花の香さ」「ふきるウグイス」など、名詞止め語の系列であり
、これらは〈春の様々な事象〉を表現している。そして名詞止めされた
これらの表現は、どこに繋がるのだろうか、という緊張感をそれ自身に
孕みつつ、みずからの存在を表示しつづける。
第二の系列は、「いいあんべぇ」であり、これは第一の〈春の様々な
事象〉の系列のそれぞれの名詞止めの語に述語的に付いて、それらに、
それらの〈私による享受〉という一つの解決を与えてくれることになる
。〈私〉は、春の様々な事象を「いい気持ち」として受け止め、それに
よって第一の系列のそれぞれの名詞は一応安定した行き場所を得るので
ある。
更に第三の系列が存在しているが、それを形成しているのは「春でぇ
むん」という表現である。これは第一、第二の系列の複合関係の全体に
対して、つまり〈春の様々な事象を私が享受している〉という事実とし
て提示される事柄の全体に対して、〈理由を与える〉役割を果たしてい
るのである。これは、(来訪し、現存し、感覚され、享受されている)
〈事実〉に対し、事実の理由を与える〈充分な理由の系列〉を形成して
いる、と言うことができるであろう。
この第三の系列の理由の与え方は、二重あるいは三重になっているで
あろう。つまり、これは一方で〈春の様々な事象〉が今訪れている
ことの充分な理由を与え(それは「春だから」である!)ていると
同時に、他方では、〈私〉が今春の様々な事象を享受できる
ことの充分な理由をも与え(それも「春だから」である!)、そし
て更に、私が春の爽やかで美しい事象の数々を、十二分に味わい、満喫
している、という自然とその享受の関係の全体に対して、充分な理
由を与えている(それも「春だから」である!)のである。こうして、
この三系列の構成によって、〈春の神々しい力〉が、その遍在する相に
おいて表現されることになるのである。
あるいはこういう風に言えるであろうか。自然は春を喜び、全身で喜
びを表現している(「風ぬソイソイ」など)。わたしもまた自然の喜び
を受け取り、大いに喜ぶ。わたしもまた全身で喜びを表現したい(「い
いあんべぇ」)。これが天地にあまねく春の喜びなのだ(「春でぇ
むん」)、と。実際、〈春〉は自然の様々な事象を貫くだけでなく、〈
私〉をも貫き、天地に余すものなくあまねいている、ということが歌わ
れていると理解される。この曲のCDを手にして、上原知子氏のこの上
なく見事な縁取りの声でこの歌が歌われるのを聞く時、私もまたこの春
の神々しい力のあまねきに、まことに心地よくつつまれる気持ちになる
のである。
しかし、ここまで考える時、私は更に幾つかの問題に気付く。まず一
つは、この神々しい春が、やはり〈沖縄の春〉だ、ということである。
それは何よりも、これが沖縄言葉で歌われているからであるが、それば
かりではなく、歌われていることのリアリティーが、声の充実した張り
、三線の響き、ゆったりしたリズム、などによって、まさに沖縄でこそ
満たされて味わわれるのだろう、と感じさせられる、ということでも
ある。この歌は確かに沖縄の独異性というものに達しており、沖縄の独
異性をまぎれもなく表現している。
そしてこの事と関係することだが、歌詞においてすべての事象が「春
だから」という理由に服しているのは、一体どういうことなのだろうか
? それは春の神的な威力に服さない事象は歌詞から省かれている、と
いうことなのだろうか? ---そうではない。ここで私たちは、日本の
本土の文芸においては既にほとんど見出すことの出来なくなった、一つ
の感受性のことを思い出さなくてはならない。それは、実際にすべて
の事象が、季節の、ここでは春の、力の印を受けている、ということを
読み取り、感じ取る能力である、ひとつの大変繊細な感受性のことで
ある。歌詞においては、存在する春の美しさ、爽やかさのすべてを味わ
い、享受する、たいへん繊細なひとつの感受性が、的確に働いている。
そしてそれによって、季節の、春の、目に美しく(視覚)、肌に美しく
(触覚)、香りに美しく(嗅覚)、そして音に美しい(聴覚)善きもの
たちが、逃されず、捉えられ、歌われているのである。
今や私たちは、先の仕組みの分析の時に取り上げなかった歌詞のある
一節について、考えてみることが出来る。それは歌詞の「野山ぬ緑 色
まさてぃ」という言葉である。これは日本の古語で、「野山の緑色まさ
りて」と直すことが出来る表現であろう。これは確かに相当微妙な感受
表現である。春になると、春ゆえに、常緑のみどりも、その色を爽やかに
、初々しい色に改めるのだ、と言う。ここでは、常緑のみどりにすら訪
れている春が、的確に捉えられ、歌われている。そして歌ではこの言葉
を含む詞行はくり返し、もう一度歌われるのである。 ----春の神的な
力に服さない事象が意図的に省かれているのではなく、常緑のみどりの
木々さえもが、春の力を受け取り、全身でそのことの喜びを表現して
いるのである。
この感受の型は、昔の日本の歌人たちがもっていたものである。例え
ば古今和歌集には次のような歌がある、
この宗于(むねゆき)の歌においては、「常盤なる」という措辞に、
多少強迫観念的なもの、つまり「全能の春の力の刻印を受けないものは
存在してはならない」とする思想の脅迫のようなものが、多少見え隠れ
するのであるが、照屋林賢氏の歌詞においては、そのような気配は微塵
もない。春の神々しい力は、ただ喜びの眼差しによって見出されている
のである。
このように見てくると、りんけんバンドの「春でぇむん」は古今集の
歌の一首に十二分に匹敵する作品であると思われてくる。そして照屋林
賢氏は、古今集の時代にあったならば、間違なく勅撰歌人のひとりに加
えられていたことであろう。
この歌は、1993年度の教育出版の中学2年の国語の教科書に採用され
た。このことの底には、照屋林賢氏にたいするこのような評
価があるのだ
ろうか。それともそうではなくて、ただ単に、日本の〈みやこ〉的な感
受性の構造に、この沖縄の歌も合致しており、それ故日本の文芸として
許容しうる、と見られただけなのだろうか?
そのいずれであれ、「春に」対する美しい感受性を、照屋林賢氏のこの作
品に
見て取ろうとする、教育出版のこの編集はまさしく「快挙」である。
そして、私はまた、照屋林賢氏を、沖縄的な文化の未来を開き続
ける思想家の一人と
して、今後とも追跡を続けたいと考えているのである。
了
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