中島みゆきの一九七九年のアルバム、『おかえりなさい』に収められた歌「この空を飛べたら」には、とても気になる
という歌詞である。
「空が恋しい」−−この気持ちが、動かしようのない事実であるというわけである。そしてそこからその理由が探られ、それは、人は昔は鳥だったからであり、空が恋しいのは、そうした昔々の鳥だった自分に戻りたいからだ、と説明される。わたしたちは、この説明に、どこまでついてゆくことができるだろうか? 他方で、「空が恋しい」という気持ちの方は、多分わたしたちは、それを、時に、十分感じることができるのであろうけれど。
同じ「空が恋しい」という気持ちを歌っていても、中島みゆきのこの歌は、恐らくとても追い詰められた場所から歌われているように見える。対比のために、ここに和泉式部の歌を引こう:
人は時として空を見やる。それは、まず何よりも、この地上には見るべきものがないからだ。それは、あるいは、「思ふ人」を、恋人を、〈求めて〉、であるかもしれない。求められるのは、多分、恋人への〈通路〉なのだ。自分の方の思いが溢れていて、その出口、行き先として、その人に会えぬ時、人は空へ、その思いを延べようとする。思いの遣り場を空に求め、そうして空に思いを遣ることによって、その思いが、恋人にとどいてくれることを願う。
古今集の次の歌は、多分このような空への思いを形にしたものだ。
「あまつ空なる人」は、ここでは本当はまだこの世の、地上の人で、ただ手が届かないようなほどの人なのだ、ということであろう。夕暮れの空に、思いをうち延べ、それが霧のように、
翻って、和泉式部の歌は、既に〈疲れ〉に満たされている。思う人が、降って来るかと、幾度希ったことだろう。しかし思うあの人は、あの亡くなってしまった人は、もう決して戻っては来ない。−−そういう歌であろうか。わたしはそう解釈しておくことにしたい。
山中智恵子氏は、この歌を註して、「和泉式部の恋の遍歴は、この〈天降る人〉を、一生待ちつづけたゆえではなかったか」と言う(『をんな百人一首』市井社)。これはどういうことなのだろうか。それは、「その人が、天降って来た人かと、何度思い、愛したことだろう。そう、希ったことだろう」ということなのだろうか。つまり、〈天降る人〉に逢いたい、という願いが、式部の恋の遍歴の原動力だった、ということなのだろうか。それとも、亡くなったあの人に逢いたい、という気持ちが、つぎつぎとその後の恋の遍歴をさせた、ということなのだろうか。−−しかし多分、真相は、この二つの思いの形が、振動しつつ一つのことに限りなく近づいてゆく、そこのところにあるのであろう。
和泉式部は、思う人が天降ってくることは、決してないのだ、と知りつつも、ふと空を見上げてしまっているという、そういう人のならいの、索漠とした場所に身を置いている。それを山中智恵子は、「〈つれづれと〉に
「人は昔、鳥だったのかもしれない」と考えること、それほどまでに空を恋してしまうこと、空を恋するしか道がなくなってしまうこと、この時ひとはとても孤独なところ、際限なく孤独になりうるところに向かっていってしまっていることになるだろう。−−しかしそれはある意味では、とても善いことに違いない。なぜなら、この道の先にしか、「神は死んでいる」という〈現代〉の姿は見えてこないからだ。ただ問題は、この道行きが、「あの人」への思いとの心中になっていること、「あの人」に対する価値評価が、なされないままだ、という点なのである。その、価値評価とともに、ひとは、その際限のない孤独への道から、とりあえず〈こちら〉へ、ふりかえることができるだろう。批判すべきことがあるのである。
ここでより詳しく分析するために、「この空を飛べたら」の歌詞の全文を引いてみよう。それは次のとおりである。
全体、反復を入れて六連から成っている。そして「空が恋しい」と言われるのは、その反復される第三連、第六連においてである。ひとは「こんなにもこんなにも空が恋しい」という気持ちになるのである。それがこの歌の、キリと言うか、歌のおもいを集約した表現である。
しかし、ゆっくりと見てゆけば、この歌にも、「空を飛ぶ」のではなく、「空を見る」という契機も存在しているのが分かる。第二連がそうであるが、そこでは、空を飛ぼうとして、失敗し、暗い土の上に叩きつけられて、それでもなお、こりもせずに、空を見ている、と歌われている。この失敗と、不可能の自覚、それは、和泉式部が、「天くだりこむものならなくに」という詠嘆によって述べた自覚と、非常によく似たものである。式部が、空を飛ぼうとしたかどうか、それは分からない。あるいは式部なら、むしろ空から降りてくるように、と招魂の呪祷に近い念いをこらしたことがあるのではないか、と思われる。しかしいずれにせよ、思う人の魂をここに在らしめ、そうして〈出合う〉ことは、できなかったのであり、そんなことは出来るはずもないのだ、という絶望的な認識は、式部においてもまぎれようもなく存在している。
式部が「招魂」を願ったのだとしたら、逆に中島みゆきは、空を飛ぼうとすることで何を願ったのだろうか。歌詞の第五連がそれを説明している。「この空を飛べたら 冷たいあの人も/やさしくなるような気がして/この空を飛べたら 消えた何もかもが/帰ってくるようで」というわけである。それは何か奇跡のようなものなのだ。事実を、ある時の経過を、つまり、「あの人」から「凍るような声で 別れを言われ」たそのこと、その時のその事実から、今日まで繋がる時の経過が、全くなかったことになって、そうして元の時に戻れるような気がする、というのである。それは、タルコフスキーの映画、『サクリファイス』のテーマのようだ。『サクリファイス』においては、その時の経過を消し去ることが、「魔女」の力によって、実現してしまうのであるが。その願望の〈方向〉と激しさにおいて、中島みゆきの歌の主人公の思いは、タルコフスキーの映画の主人公の思いに決して劣らない。そして、経過した時を消し去ることはできない、という認識において、中島みゆきはよりリアリスティックであり、「時はおのずから流れ、いかなる力もそれをとどめたり、消し去ったりすることはできない」という、ニーチェ的な永遠回帰の時間論の側にある。
中島みゆきは空を飛ぼうとする。そうして、あの、受入れ難い事実と時を消し去ろうとする。しかし人はこの空を飛ぶことができない。そうして助走して、崖から飛び上がろうとしても、ただ土の上に叩きつけられてしまう。その土は「暗い」。決して自分に味方して、奇跡を起こしてくれたりはしない。その土の暗さは、身にしみついて、身に刻み込まれる。しかしにもかかわらず、ひとは、「こりもせずに空を見ている」。しかし、ここで空を見る時、飛ぶことの不可能、そうして時を消し去ることの不可能、は、もうあらがい難い事実として弁えられているのである。
こうして、その索漠とした不可能性に裏取りされて空を見ている時、みゆきの空は式部の空ととてもよく似たものになっている。こうして倍加された絶望に縁取られて空が見やられる時、その時、空は〈恋しいもの〉になるように見える。もはや飛ぼうとは思わない。しかしこの空への憧れだけはとどめようもないものになる。・・・なぜこんなに空が恋しいのか。それは、ひとは昔は自由があったはずだからだ。そんな不自由ではなかったはずだからだ。もっと伸び伸びしていたはずだからだ。ひとは羽根をもち、空を自由に飛べたはずだから、ひとは鳥だったはずだからだ。そんな記憶が、どこかにあるような気がする。
中島みゆきの歌の結論は、「空が恋しい」ということである。こうして痛みを引き連れて、空を恋いつつ、見上げている。「あの人」を待ちながら。けれど私は、もはや飛ぼうとはしない。ただ走ってゆく。走りつづける。そうして、多分、傷口を忘れるために。
中島みゆきの空の歌は、式部のそれに決して劣ることなく、ある意味でより突き詰められた絶望を形にしており、ニーチェの洞察が〈現代〉という空間を開いているとすれば、まさに〈現代〉の空の歌を歌っているのである。
了
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